22.罠
翌朝——私はリボンを手にしたまま、寝てしまったらしい。
支度のために身を起こし、侍女を呼ぶ前に鏡を見た。
「何か瞼を冷やすものが必要ね」
私は侍女に朝浴のための湯を張るように言い、冷たい飲み水も一緒に用意するように頼んだ。
温かい湯の中に浸かると冷えていた体が一気に温められ、捻った足は痛んだが、緊張が解けていく。
冷たい水に布を浸し、瞼にそっとのせた。
「はぁ……気持ちいいわ。だけど、男爵と舟遊びだなんて……せっかくの良い気分が台無しね」
そう口にしてみたものの、私の心を重くしているのは、きっとジェフリーのせいだ。
(だめよ。こんな弱気でどうするの。男爵の不正を明らかにして領民を救うことが私の使命よ。その後のことは……ゆっくり考えればいいわ)
私はもう侯爵夫人の座に居座るつもりもなかった。
(実家に戻って落ち着いたら、どこか遠くへ旅に出るのもいいわね)
ほんの先の未来を想像するだけで、僅かに心が軽くなった。
——「タチアナ様、舟は揺れますから、さぁ、どうぞ」
(この男の手を取るのは、男爵夫人には申し訳ないけれど……虫唾が走るわ)
トラン男爵に弱みを見せまいと、痛みを堪えて舟に乗り込んだ。
ボナパルト家の騎士たちは不安げな眼差しを向けているが、私はにこやかにトラン男爵に話しかけた。
「とても楽しみにしていましたのよ。調査も無事終わって、今日は男爵を労わなければいけないわね」
「ハハハハハッ。調査は形だけのものでしょうし……まぁ、調べられて困ることはありませんがね」
水の流れは穏やかで、降りそそぐ日の光が水面に反射し、きらきらと輝いている。
小川とはいえ、舟を二艇並べて漕いでも櫂がぶつからないほどの川幅があり、所々に岩があったりして、流れが不規則になっているところや青が濃くなっている深みも見られた。
「タチアナ様、この小川は安全ですよ」
落ち着かない様子の私に、男爵は醜い笑みを見せた。
私が気にしていたのは、小川の危険ではなかった。
男爵が用意した舟はあまりにも小さく、二人きりで乗らなければならなかったからだ。
「ええ……緩やかな流れですものね」
漕ぎだした舟は、ゆっくりと小川を進む。
日傘で日差しを避けながら、思わず木立の間を目で追ってしまうのは、もしや……と淡い期待が胸をかすめたからだった。
(ジェフリーが男爵に見つかってはいけないのに……)
「タチアナ様、えらく森の中を気にされていますが……鹿でもおりましたかな? ここは良い猟場ですからな」
「……いいえ。普段は、帝都におりますでしょう。このような自然豊かな場所が珍しくて……つい」
「ハハハッ、そうでしょうな。気に入られたのなら、ずっとここにおられてもよろしいのですよ」
「まぁ、男爵は面白い方ですわね」
私はこの目の前のふてぶてしい男を揺さぶりたい衝動にかられた。
この男のせいでジェフリーを失ったかと思うと、どうしようもない怒りが込み上げてきたのだ。
「この森には……鹿がいるのですね。夫人から聞きましたよ、男爵は元騎士でいらっしゃるのでしょう?」
「お恥ずかしい。セシルがそんなことまで口にしていたとは……。自分で言うのもなんですが、まぁ、狩りの腕前は悪くありませんよ、タチアナ様」
「あら、晩餐には一度も美味しい鹿肉にはありつけませんでしたわ」
「これは失礼いたしました! それでは、私の狩猟小屋に着きましたら、見事、鹿を狩ってみせましょう。丸々と太った鹿肉は絶品ですぞ」
「そう……村民は飢えで苦しんでいるというのに、鹿は丸々と太っているだなんて……。どこかで“食べ物の豊かな場所”があるのかしら……。鹿に尋ねてみたいものだわ……ふふふっ。いやだ、真に受けないでちょうだい。ほんの冗談ですわ」
私は薄氷のような笑みをたたえ、男爵に美しく微笑みかけた。
男爵もそれに応えるように笑みを崩さなかったが、その口元はわずかに引きつり、水をかくオール捌きに苛立ちが感じられた。
「なるほど、なるほど……ぐふふふふ……タチアナ様とは気が合いそうだ」
余裕の態度とは裏腹に、先ほどまでとは打って変わって男爵のオール捌きは乱れ、あちらこちらと行き先が定まらない。
おまけに男爵は額に汗を浮かべ、脂の混じったような汗の臭いが私の鼻を衝いた。
(やけに舟が揺れるわ。この男……漕ぐのが下手なの?)
男爵の体臭と舟の揺れが重なり、だんだん私はひどく気分が悪くなった。
(うぶっ、ここで粗相をするわけにもいかないし……)
「いかがなされましたかな? お顔色がお悪いようですが」
(初日の晩餐で馬車に酔ったと言っていたが……乗り物に弱いのは本当のようだな)
「気にしないでください。少し日差しに当てられたようですわ」
まさか男爵がわざと舟を揺らしていたとは知らず、私は船酔いのせいで胸のあたりがむかむかして、今にも食べたものを吐き出したくなっていた。
「ああ、お顔色が真っ青ですよ! この近くに、私の所有する狩猟小屋があります。そこで休んで行きましょう」
男爵の申し出を断りたい気持ちはやまやまだったが、それを跳ねつけられないほど私は限界に近かった。
(ずいぶん小川を進んだ気がするけれど……ジェフリーの住む小屋は近いのかしら? ああ……ううっ……一刻も早く岸にあがりたいわ……)
舟が岸に着き、男爵が私に手を差し伸べた。
ふと、嫌な予感がして私がぐずぐずしていると、意外な人物が声を掛けてきた。
「男爵様、いかがされましたか?」
(ソフィアさん? どうしてここに……)
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