21.動き出した欲望
静かにジェフリーの部屋の扉が開いた。
ソフィアは、ゆっくりと月明かりしかない部屋の中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
「こんな夜更けに何の用かい?」
「きゃっ! ……ピ、ピエール、起きていたのね」
ジェフリーの視線の先には、あられもない姿のソフィアが立っている。
「……どういうつもりだ」
「私の気持ちは分かっているでしょう!」
「ソフィア、君には恩がある。だけど、君の気持ちには応えられない」
その言葉を聞いたソフィアは、目を見開いて喚きながらジェフリーに掴みかかった。
ジェフリーの髪を引っぱり、振りかぶった手でその頬を何度も打った。
「何を言っているの? あんたは私の夫なんだから、抱きなさいよ! なんで……なんで……」
ジェフリーは、頬が赤く腫れ上がるのも厭わず、ただ黙って打たれ続けた。
しかし、その瞳には強い嫌悪が宿り、ソフィアへの軽蔑が見て取れた。
ソフィアに夢をもたらした完璧な存在の——完全な拒絶。
(違う! 違う! 違う! こんなのピエールじゃない!)
これまでのジェフリーは自分たちを優しく助け、眼差しには思いやりが感じ取れた——ジェフリーにとっては、ただの恩人への配慮にすぎなかったのだが。
今まで、ソフィアはそんな優しさを誰からも向けられたことがなかった。
だからこそ、その幻想が崩れた瞬間、ジェフリーの善意はかえってソフィアの心を深く傷つけ、恋心は執着へと歪み始めていた。
(いいわ、ピエール。どうせ、記憶を失ったあなたに行く当てなんてないんだから。それに……優しいあなたが、私たち親子を置いていけるはずないもの)
ソフィアは打つのをやめ、壊れた笑みを浮かべたまま静かに部屋を出ていった。
(あのお嬢様のせいで、あなたも夢を見ているの? 許さない! 私が男爵様にお願いして、お嬢様を無茶苦茶にしてもらうから……アハハハッ)
——ジェフリーの部屋を出ると、まだ夜も明けきらぬうちに、急いでソフィアはトラン男爵の屋敷へ向かった。
男爵はソフィアに、屋敷の誰にも気づかれず寝室まで辿り着く抜け道を密かに教えていた。
屋敷の裏手にある通用口を通り抜け、洗濯室にある古い棚を移動させると、下の方にぽっかりと開いた穴が現れた。
ソフィアは身をかがめ、そこから中に入ると、手と膝を使ってずんずん狭い通路を進んでいく。
そして、小さな通気口の格子を外すと、男爵の寝室へと忍び込んだ。
「旦那様……旦那様……」
気持ち良さそうに寝息を立てている男爵の耳元で、ソフィアは小さな声で呼び掛け、男爵の手を握った。
「ふぁ? ああ? 誰だ……? この柔らかい手は……」
男爵は寝ぼけながらも、いつも汗ばんでいる手でソフィアの手を撫でまわす。
元騎士だったせいか、刺客かそうでないかの区別は本能的に嗅ぎ分けられた。
「やめてください、旦那様」
ソフィアは男爵の手を軽くぺちんと叩いた。
「ソフィア……貴族の寝室に忍び込むとはいい度胸だ」
「……ごめんなさい。でも、どうしても早く旦那様にお伝えしなければならないことがあったのです」
男爵は身を起こしソフィアの後頭部を掴むと、ぐいっと顔を寄せた。
「なんだ? 言ってみろ」
◇
私は、森の中でジェフリーとソフィアさん親子が立ち去った後——護衛騎士たちに泣いた顔を見られたくなくて、泥の付いた手でわざと顔を汚した。
騎士たちは私の怪我に驚き、慌ただしくトラン男爵の屋敷へ連れ帰った。
屋敷へ戻る前に、怪我のこともマレのことも誰にも話さないように、騎士たちにきつく言い含めて——。
(マレの姿に騎士たちも驚いていたけれど……素直に喜んでくれていたわね。ああ、でも、足の手当に侍女は呼べないわ)
仕方なく私は、男爵家の侍女に冷たい飲み水を頼み、ジェフリーが足首に当ててくれていた布を冷水に浸して、応急処置を施すしかなかった。
(そうだわ……)
腫れて痛む足首をひきずり、ようやく鏡台の前に腰掛けると、髪を丁寧に梳かす。
(ふふっ、ひどい顔ね)
慣れない手つきで髪をゆるく編み、そこにあのリボンを結ってみた。
「ジェフリー、私は……あの日、あなたに加護があるようにと……必ず……戻って来てと……願いを込めて……あなたに贈ったのに……」
込み上げてくる言葉を紡ぐたび、声は震えてしまう。
とうとう私は堪えきれず口元をぐっと押さえ、声を殺したまま泣き続けた。
その頃——同じ日の晩に、ソフィアさんとジェフリーの間で不穏なやり取りが起こっていたなど、私は知る由もなく、疲れ果ててそのまま寝てしまった。
まして私を陥れるために、この屋敷でソフィアさんがトラン男爵に大胆な取引を持ちかけているとは、想像すらできなかった。
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