19.元に戻れたなら
「……私たちが?」
思考が追いつかず、言葉が思い浮かばない。
(ジェフリーは私のことを忘れてしまったのね……。まさかと……心のどこかで否定していたのに……)
「貴族の令嬢と知り合いだなんて、おかしいだろう……気を悪くしないでくれ。なんというか……君とマレを見ていると気持ちが変なんだ。おかしいな……」
「妻がいながら、堂々と別の女性を口説くなんて……ずいぶん大胆なのね。それに、貴族に馴れ馴れしい平民は初めてだわ」
私は事実をまだ受け入れられず、つい棘のある言い方をしてしまった。
「妻!? ああ、なるほど……そういうことか。君を口説いているつもりもないし、ソフィアは僕の妻じゃない。いや、違うそうじゃないな……」
ジェフリーは顎に手を遣ると、何か考えを整理しているのか黙り込んだ。
「私の言い方があなたを怒らせたのなら……」
私はおずおずと口を開くと、ジェフリーは一瞬、驚いたように目を丸くした。
「いいえ、あなたが謝ることではありませんよ。僕の配慮が足りませんでしたね。でも……なぜか、あなたのことを知っていた気がして……すみません。ふう……とにかくその足を冷やしましょう。失礼」
ジェフリーは持っていた布を水に浸し、私の足首に当てた。
(私と会話したことで、眠っていた記憶が目覚めようとしている? でも……)
「もう、いいわ。本当は身分にこだわるのは好きじゃないの。だから、あなたも楽に話して。ミロはあなたにとても懐いているのね。その……あの時一緒にいた方がミロのお母様でしょう? それで……ソフィアさんはあなたの恋人なの?」
ジェフリーは私の真意を測るように、じっと瞳の奥を探っているようだった。
「ははっ、そんなに僕のことが気になるのかい?」
「はぐらかさないで」
「気が強いお嬢様だ。そうだな……マレが君の護衛騎士を呼んでくるまで、時間がありそうだね。それまで僕の話でも聞くかい?」
ジェフリーは、いつのまにかマレが飛び立ったのは騎士たちを呼ぶためだと気づいていた。
「ええ、聞いてあげてもよくってよ」
(相変わらず、勘が良いのね。もしかして、完全に記憶を失っているわけではないのかしら? 習慣や感情のようなものは、どこかで眠っているだけなのかもしれないわ)
ジェフリーは淡々と話し始めた。
記憶を失っていて、自分が誰なのかも分からないことや、ソフィアさん親子に助けられたこと——。
記憶を取り戻すため村を出ようと決心しても、恩人である親子に引き止められ——心ならずも旅立ちが先延ばしになってしまっていること。
「それで、あっという間に二ヶ月も経っていたというわけさ」
「優しいのね……。でも、待っているかもしれない家族は? それに、ソフィアさんは妻ではないと言ったけれど……あなたを必要としている彼女たちを残して出て行くだなんて……残酷な人」
(私、何を言っているの!?)
すぐに私は後悔したが、遅かった。
「それもそうだな……。待っている家族がいるかも、記憶が戻るかも分からない。君の言う通り、新しい人生を生きるのも悪くないのかもしれないね」
(もう、だめ——)
私の唇がふるふると震え、小さな嗚咽が漏れ出すと、一気に涙が零れ落ち、嗚咽はしゃくり上げる泣き声へと変わっていった。
「すまない! な、何か気に障るようなことを言ったかな……ほ、本当にすまない」
驚いたジェフリーはしどろもどろになりながら、私の背中を優しくさすってくれた。
(いっそのこと心変わりだったなら、あなたを憎んで手放せたかもしれない——)
慰められながらひとしきり泣いた私は、鋭い視線を感じてふと見上げた。
「ピエール! 探したのよ!」
そこには今にも泣き出しそうな顔のソフィアさんが、悲痛な声で叫んでいた。
傍らにはソフィアさんの手をしっかり握っている幼いミロの姿も……。
——ミロはソフィアに急かされるように手を引っ張られると、ためらいがちにソフィアの顔を見上げた。
「ミロ、早くお父さんって呼びなさい」
「でも……ピエールはおとうさんじゃないよ」
ソフィアの張りつめた気迫にミロは仕方なく叫んだ。
「おとうさん!」
——その一言に、私の胸は締め付けられた。
(あれはミロとソフィアさんだわ……。今、ジェフリーをお父さんと呼んだの? あんなに違うと駄々をこねていたのに……。私が身を引けば、ジェフリーを父親にしてあげられる……)
「おーい。ソフィア、ミロ! 良かった……この人を助けるのを手伝ってくれ!」
私は、どんな立場でも真っ直ぐに生きているジェフリーが本当に遠い存在に思えて、思わず手を伸ばした。
その時——遠くから私を探す騎士たちの声が聞こえてきた。
我に返った私は、伸ばした手をサッと戻した。
(騎士たちにジェフリーが見つかってしまう!)
「き、騎士たちが迎えに来たようだわ。助けてくださって、ありがとうございました。もう私は大丈夫よ……だから……あの方たちの元へ行ってください」
「いや、でも……」
「いいから……早く……お願い!」
私は力いっぱいジェフリーの体を押しやった。
「分かったよ」
ジェフリーが崖の上へ繋がる道に向かって歩き出した。
(ああ……愛しい人)
止まっていた涙がじわじわと瞳に溢れて、一筋頬を伝う。
(ジェフリー!)
ジェフリーは聞こえるはずのない私の声に呼び止められたように歩みを止め、ふたたび私の元へと駆け寄った。
「君のだとミロが返したリボンなんだけど——僕に残された『唯一』のものだったんだ。なぜだか、僕を導いてくれるような気がして——でも、そのまま君が持っていてくれないか?」
「どうして……あなたの『大切なもの』なのでしょう?」
「そうだな……君の髪によく似合うと思ったんだ。だから、そんなに悲しい顔をしないでくれ……」
そう言って、ジェフリーはおもむろに私の髪を手に取ろうとして、慌てて引っ込めた。
(ジェフリー……私たちは、もう元には戻れないの? ああ……神様……)
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