17.トラン男爵の企み
男爵夫人はボナパルト侯爵夫人との会話を終えると、ふと庭園を歩きたくなった。
(こうして庭園に出るのも久しぶりね。昔は侍女たちと花の手入れをするのが楽しかったわ……)
けれど、ソフィアが屋敷に来てからは、庭園に足をむけることさえ躊躇われた。
庭園を奥まで進めば、夫の書斎が見える。
昼間だというのに分厚いカーテンが閉め切られていて——その光景を見るだけで吐き気をもよおした。
(これからは、お父様とお母様がお好きだったこの庭の手入れを、もっとしないといけないわね)
自然と男爵夫人の口元がほころんだ。
「何か良いことでもあったのか? セシル」
久しぶりに自分の名前を呼ばれ、驚いて振り向いた。
すぐ後ろで、夫のトラン男爵が薄い笑みを浮かべて彼女を見ている。
「何も……。花が綺麗だと眺めていただけよ」
「ほぉ……そうか。長い時間、タチアナ様と部屋で話していたそうだが……出過ぎた真似はしていないだろうな?」
「……」
「フンッ、まだお嬢様のつもりか? ……まぁいい。侯爵の座があの方に変われば、俺の爵位も上がるだろうからな」
黙ったままの夫人を冷たく一瞥し、それだけ言うと、男爵はくるりと踵を返して屋敷へ戻ろうとした。
「あなた! あの方って? 何か悪いことに手を染めているのなら……」
男爵はじっとりとした目つきで夫人に近づくと、その細い首元を汗ばんだ手で掴んだ。
その表情は理性の欠片さえも消え、抑えようのない苛立ちに満ちていた——男爵夫人だけが知るもう一つの顔がのぞかせた瞬間だった。
「うっ……」
夫人は圧迫を感じ、小さく呻いた。
「セシル、お前は大人しく屋敷に籠もっているだけでいいのだ。何も家門の役に立てないのだからな。お嬢様育ちのお前には、夫の苦労など分かるまい」
「あなた……やめて……」
かつて騎士として戦場を経験した男爵は、どうすれば弱い者が力に屈するかを熟知していた。
(この女も……ソフィアやミロも、俺にとってはもう用済みだ。あの方——ボナパルト侯爵の叔父ヴィクトール様さえ当主になられたら、俺を引き立てて下さると約束してくれたのだ! そうなれば、タチアナ……あのお高くとまっている女を妻に……。いや、未亡人は妾くらいがちょうどいい)
男爵は昔から欲深い男だった。
貧しい平民が手っ取り早く金を得るためには、戦場に出るしかない。
ところが、平民の騎士がいくら武功を挙げたところで、せいぜい授かるのは騎士爵どまりだった。
(大した金も貰えず、平民に毛が生えたほどの爵位で俺が満足するとでも? 楽な生活ばかりしている貴族め、今に見てろ!)
運よく男爵家の護衛騎士となり、令嬢を誘惑して婿に納まったものの、小さな田舎の封土と容姿は良いが平民の女を妾にする程度しか手にできなかった。
あれほど貴族に憧れていたというのに、所詮、男爵位など貴族社会では末席にすぎない。
高位貴族たちと交わるたび、成り上がったつもりでいた自分が、滑稽に思えるほどだった。
そこへ、ヴィクトール・ボナパルト伯爵からトラン男爵の心を見透かしたような提案をしてきた。
(ヴィクトール様は、俺の欲深さを気に入っておられた。 欲望に忠実な男ほど、使い勝手が良いと知っているのだ)
「私に協力し、甥のジェフリーを亡き者にしてくれたなら、伯爵位と……そうだな、タチアナをお前にくれてやる。どうだ、男爵? 賢い選択をすると信じているぞ」
ジェフリーの叔父ヴィクトールもまた、自らの欲のためなら甥夫婦を踏みにじることなど、何の抵抗もない男だった。
男爵に目をつけたのは、自分と同じ匂いを感じたからだ。
欲のせいで、いつまでも燻っている男——ただ、男爵が使い捨てられる側の人間であることは、ヴィクトールにとって初めから揺るぎない前提だった。
しかし、男爵もまた利用されるふりをして、これまでのように成り上がるつもりでいた。
(やっと俺にもツキが回ってきたのだ。好きでもない女と結婚して、ちっぽけな爵位を手にしたが、俺はこれで終わる男ではない。あの若造に封土の管理を疑われた時から、いつか始末してやると思っていた。ちょうど嵐が来たのは幸運だったな。神も味方してくれたのだろう、ハッハッハッ)
首元から手を離した途端、逃げ出した男爵夫人の後ろ姿を高揚と愉快な気持ちで見ていた——もう、別の女のことしか頭になかったのだ。
(あの若造の妻をどういたぶるか想像しただけで……)
トラン男爵は、時折、タチアナが表情を曇らせたり、嫌悪の瞳を向けていることに気づいていた。
(侯爵夫人のような女は、足元に跪かせてこそ価値があるというものだ。高貴な女ほど、踏みにじる楽しみが増える……ぐふふふふ)
そう考えるだけで、男爵は興奮で身震いするのだった。




