16.男爵夫人の痛み
男爵夫人の告白は、私にとっても辛い現実を突きつけられたような気がした。
「そうだったのね。さぞ、辛かったでしょう……。それで、男爵は跡継ぎを作るために妾を?」
寂しそうに男爵夫人は静かに頷いた。
「ええ。私のせいですから……見て見ぬふりをしていました。夫が侍女たちに手を付けるようになって……でも、本当に最初は跡継ぎのためだけでした。それが、ソフィア……あの女が現れてから夫は変わったのです」
「本気になったと……それで、ミロが生まれたのね」
「夫の愛を独占してしまった、あの女は憎いです。でも……幼いミロの顔を見たら……守りたいと、あの子の母になりたいと思ってしまった……」
気づけば、男爵夫人の頬を涙が伝っていた。
「あなたは、そこまで……。でも、それなら、どうして男爵は屋敷から親子を森へ追いやったのです? ミロは大事な跡継ぎでしょう?」
「私が夫に頼んだのです……ミロを養子として認めてほしいのなら、成人するまでは屋敷の外で育ててほしいと」
「男爵夫人、ソフィアさんが憎いのなら彼女だけ追い出せば済む話でしょう。後継者教育のためにも、養子のミロをあなたの手で育てることは、貴族では当たり前のことよ」
私も意地の悪いことを言って男爵夫人を追いつめている自覚はある。
でも、男爵夫人を信じるには、どうしても彼女の本心が知りたかった。彼女が私に協力することで、何を望んでいるのか……。
「タチアナ様、私も母親です。子どもを奪われる苦しみは、身を裂かれるより辛いものです。いくらあの女が憎いからといって、私にはそんなこと……できません。……ミロは可愛いですわ。ですが、親子と同じ屋敷で暮らすのも耐えがたかったのです。わがままですわね」
「……いいえ、自然なことですわ。むしろ、男爵夫人の優しさに甘えているトラン男爵の方が、私は許せませんもの」
きっと——トラン男爵は、一介の騎士から急に貴族になったことで、次第に手にした富と力に溺れてしまったのだろう。
そして、さらなる上流への憧憬が、心の奥に潜む欲をあらわにしたのかもしれない。
(許されることではないけれど。跡継ぎを欲したのは、婿養子の立場のせいね。夫人に離縁されてしまえば、それまでのこと。夫人がミロを認めなければ、トラン家の戸籍に入ることはできないから、二人の女性の気持ちを利用して、結局は自分の欲を優先させたのだわ)
「タチアナ様、夫はまだジェフリー様が生きていらっしゃることに気づいておりません。ジェフリー様が侯爵家に戻られない理由は、私には分かりませんが……ソフィアは油断ならない女です」
私は、男爵夫人の忠告が胸に重くのしかかっていた。
(夫人は、ソフィアさんを甘くみるなと釘を刺しているのね)
「ねぇ、男爵夫人、どうしてジェフリーが森にいると知ったの?」
「それは……こう見えても私はトランの娘ですから、森は慣れています。たびたび森へ行って、あの親子を……いえ、ミロを見守っていました……。いつものようにあの子の姿を探して森を歩いていましたら、滝つぼ辺りで倒れているジェフリー様を見つけて……お助けしようとしたのですが……」
「親子が近づいてくる声がして、咄嗟に隠れなければならなくなったのね」
「はい……。でも、隠れた場所からでも、ジェフリー様のそばにいた大鷲がマレ様だと気づきました」
バラバラだった欠片が、初めてつなぎ合わされた気がした。
「マレに徽章と夢見草の花びらを託したのは、あなただったのね!」
男爵夫人はゆっくりと頷いた。
「タチアナ様、夫には気をつけてください。ジェフリー様に何をしたのかは分かりません。でも、夫の企みによって、封土の管理が歪められているのは知っています。ですから……」
「男爵夫人……私は、男爵を裏切ってまで私に協力する理由を知りたいの」
私の率直な問に、男爵夫人は少し身じろぎ瞳を揺らした。
そして、静かに首を振り一度閉じて開いた瞳には、もう迷いは消えていた。
「夫の心を欲しいと願ったところで、とっくに夫婦の絆は終わっています」
長い年月を経たせいか、その声音は淡々としていた。
けれど、男爵夫人の指先はわずかに震えていた。
「……それでも、トラン男爵をまだ愛しているのでしょう?」
「愛の形も様々なのですよ、タチアナ様。私はもう疲れてしまいました……。ですが、タチアナ様にお会いして、勇気をいただいたのです」
「勇気?」
「はい。愛する夫を失っても、気丈に領民のために奔走されるタチアナ様に。私ももう一度、両親が守ってきたトラン家を立て直したいと思います。そして、私の誇りも取り戻したい……どうか、お力を貸していただけませんか……」
「……分かったわ。トラン男爵と離縁する覚悟はある?」
男爵夫人は握り締めた手を私の前に差し出し、ゆっくり開いた。
「タチアナ様、ご覧ください。私が手にしていたと思っていたものは、本当は何一つ無かったのです。これからは、自分の責務を果たし、家門を正しく導きたいと……そう思っています」
私は男爵夫人の手を取り、そっと手を重ねた。
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