第十話 おっさん、子供を助ける①
「な、なんだ!?」
突如として鳴り響いた、凄まじい獣の咆哮。サイプルの腹の音とは比べ物にならないほどの轟音の方へ慌てて顔を向ければ、巨大な猪のような獣がこちらに向かってきているのが見えた。
「ギャー! なんだよ、あれ!?」
「あれは、猛獣型の魔獣ですね」
「猛獣ぅ!?」
明らかに危険な響きしかない音の羅列だ。
「種類は……ワイルドピッグかと」
「豚にしては、ワイルドすぎるだろ!?」
「豚ではありません。ワイルドピッグです」
「どっちでもいいわぁ!」
恐ろしい獣の正体は、野性的すぎる豚だった。サイプルが細かい事を指摘してくるが、今はそれどころではない。俺はサイプルの腕をわしづかんだ。
「逃げるぞ!」
「? 何故ですか?」
「アホ! 周りを見てみろ!」
穏やかだった草原は一変していた。昼寝をしていたはずの小さな生物たちは飛び起きると、一斉に逃げ出していく。先ほどまで足元にいたホーンラビットも、脱兎のごとく駆け出していた。それに倣い、俺たちも急いでこの場を離れる必要がある。そんなことぐらい、子供でも分かりそうなことなのに……このサイプルという少年は、小首を傾げるだけで微動だにしない。
「あんな化け物、相手にしたら死ぬぞ!」
「ワイルドピッグくらいなら、自分一人で問題ありません」
とんでもないことを言い出す少年に、俺は唖然とした。
「いやいやいや! 何言ってんだ! あれと戦う気か!?」
「もちろんです」
さも当然、と言わんばかりのサイプル。一瞬気が遠くなったが、なんとか踏ん張り少年の肩を掴んだ。彼の脳を正常に戻すための荒療法として、俺はそのまま肩を激しく揺さぶってやる。
「アホ言え! あんなもん、お前一人でどうこうできるわけないだろ!?」
「し、師匠……! 揺らさないで下さい、気持ち悪く……」
「大体な、武器もなんも無いんだぞ!? 素手でやり合う気か!?」
「武器ならあります!」
「へ?」
思いもよらない言葉に、ポカンとしてしまう。動きが停止した隙をついて、サイプルは肩に置かれていた俺の手を丁寧に引き剥がす。少年の顔色が若干悪いような気もするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。俺はサイプルに詳細を問い詰めていく。
「武器なんて、どこにあるんだよ? まさか……そこら辺の木の枝のことじゃないだろうな?」
「ハハ、師匠は面白いことを言いますね」
軽く笑うサイプルに一瞬、怒りが沸いた。飛び出しそうになった文句は、先に放たれたサイプルの言葉によって喉に押し戻されてしまう。
「ご安心を。木の枝でも討伐できますが、今回は愛用の武器をちゃんと使用します」
「いや、だから! そんなものどこに……」
「“アイテムボックス”です」
その単語に、俺は豆鉄砲を食らった。
そうだった……こいつのスキルは“全能”。この世界に存在する全てのスキルを使用できる、チートスキルだったんだ。アイテムボックスなどという、異世界ファンタジーのド定番な能力くらい習得済に決まっている。そんなことなどすっかり忘れて「木の枝じゃ~」とか言ってしまった無知な自分が、ものすごく恥ずかしい。
いや、待て。それよりも、つい最近の記憶が抜け落ちてしまっていたということは……脳がついに老化現象の第一歩を踏み込んでしまったのではないのか……!?
向き合いたくなかった現実を突き付けられて、一人静かに落ち込む。そんなおっさんになど気にも留めず、サイプルはスキルを発動させていた。
「確か、この辺に……」
引き出しの中をまさぐる様に、サイプルはもぞもぞとアイテムボックスの中で腕を動かしている。
「リストは見ないのか?」
「アイテムボックス内にあるものは把握しているのですが、その、場所まではちょっと……」
「はぁ?」
「アハハ」
笑って誤魔化してはいるが、要はアイテムボックスの中が整理できていないということだ。貴重なアイテムや強力な武器があっても、取り出せなければ意味が無いというのに……片付けが苦手だという少年の意外な一面。それも今後、直していくべきか……俺は重々しい息を吐きながら、検討する。
――ブモオオオォォー!
「げっ!?」
先ほどよりも大きくなった鳴き声。恐る恐るそちらに顔を向けると、予想通り魔獣との距離が縮まっている。はっきりと見えてきたワイルドピッグの姿に、俺のビビりボルテージが爆発的に上昇した。
「イヤァアー! やっぱり、こっちに来てるー! サイプル、まだかぁ!?」
「うーん、どの武器にすべきか……」
「こんな時に悩むな、アホぉ!」
武器を見つけたサイプルは、アイテムボックスに手を突っ込んだまま熟考している。マイペースすぎる少年に、沸き上がる怒りのまま俺は拳を作った。
『マスター! あの魔獣、何かを追っています!』
「え……!?」
慌てたような華の声に、俺は反射的に意識を指摘された場所へと向ける。今までワイルドピッグに目を奪われていたが、確かにその前方には何かの影が動いていた。徐々に近づいてくる影に目を凝らし、その正体を確認する。
「あれって……人じゃないのか!?」
人間だ。獣の前には、人間がいた。しかも、二人。魔獣から逃げるため、懸命に駆けるその姿を見た瞬間、俺の体は脳が命令するより先に動いていた。
『マスター、乗ってください!』
華の声と一緒に、ドアが開く音が聞こえてくる。顔を向けると運転席のドアが開いており、俺は迷うことなく華に飛び乗った。慣れた手つきでシートベルトを締め、ハンドルを握る。それを合図にしたかのように、エンジンが自動でかかった。
流石、相棒。息がピッタリだ。
「よし、これにしよう!」
お目当ての物が見つかったらしく、サイプルの手が勢いよくアイテムボックスから抜かれた。その手には握られていたのは、彼の身の丈ほどもある大きな剣だった。
「自分の愛刀の一本です!」
「決まったのなら、さっさと乗れ!」
『サイプル様、助手席へどうぞ!』
「いや、自分は遠慮する!」
「はぁ!? 何言ってんだ!?」
まさか、この期に及んで「行かない」とでも言うつもりなのか? と思ったが……深紅の瞳は、ぎらついていた。ワイルドピッグを見据えている瞳は、正に狩人だ。そんな彼が戦う気力を失くしているとは考えにくい。
「自分は車内ではなく、こちらに失礼させてもらう!」
そう言うやいなや、少年の体が地面からピョンッと、人ではあり得ない脚力で跳ね上がる。その直後、ドスッと重みのある音が後方から聞こえてきた。どうやらサイプルは車内ではなく、荷台部分にある平らな屋根の上に飛び乗ったようだ。
「あ、こら! ちゃんと助手席に乗れ!」
『サイプル様、危ないですよ!!』
「ご安心を! 複数のスキルを使用しておりますので、華殿に負担はかけておりません」
「そういう問題じゃねぇ! いや、そこも重要だけど!」
いくら平坦な屋根の上だとしても、車が走行すれば強風に煽られてしまう。サイプルの身体能力に関係なく、危険であることに違いはない。なんとか降りてもらおうと説得するが、少年は頑なに首を縦に振らない。
「自分は車内には乗れません!」
「何でだよ!?」
「きっと酔うからです!!」
ドドンッ! と自信たっぷりにそう言い切るサイプルに、俺は呆気に取られてしまう。
「自分のことは、心配無用です! 絶対振り落とされませんし、安全であることは保障します!」
「あー! もう、分かったよ!」
俺はハンドルを握り直し、アクセルを全開に踏み込んだ。
「飛ばすぞ! しっかり掴まってろ!」
「はい!」
サイプルの快活な返事を信じ、俺は車を発進させた。窓から見える景色の流れる速度が徐々に増していく。一定の速さに保てるくらいに加速が完了したところで、俺はサイドミラーに目を向ける。これだけの速さだ。どれほどサイプルが有能だとしても、強風という自然の力には敗北している可能性が高い。少年の無事を確認したくても、サイドミラーでは上手く見えない。俺は窓から顔を出し、サイプルへと声を張り上げた。
「おい、サイプル! 大丈夫か!?」
「最高です! とても気持ちいいです!!」
言葉の内容に見合った声音に、俺は安堵の息を漏らした。どういう仕組みかは分からないが、走行中の屋根の上でもサイプルは平気なようだ。
――コイツに不可能なことなんて、この世にあるのだろうか?
そんな疑問を抱きつつも、心配が解消された俺は顔を車内へと引っ込める。窓を閉めようと、スイッチに俺が指をかけた瞬間、待ったをかけるように少年から声が上がった。
「師匠! お聞きしたいことが!」
「何だ? まさか、何かトラブルが……!」
「ワイルドピッグ討伐……師匠も参戦しますか?」
「全力で遠慮します!!」
虫取りに行く? 的な軽い誘いをしていいような内容ではない。持ち前のビビりを発揮し、全力で辞退を申し出る俺に、サイプルは残念そうな空気を纏った言葉を投げかけてくる。
「そうですか……今回は師匠とご一緒できなくて、残念です」
「今回はって何だ、今回はって。俺は一生、そういうのには参戦しないからな!」
「次は一緒に魔獣を狩りましょうね!」
「やらねぇって言ってんだろ!!」
『お二人とも! ワイルドピッグまで、後少しです!!』
『ご準備を!』という華の緊迫した声が脳に響く。




