第七話 おっさん、熱く語る①
――スリッ……
「ひっ!?」
不意に、片足に伝わってきた柔らかな感触。恐怖の息を零した俺は、ゆっくりと視線を下へと向けた。すると、そこには予想通りの光景があった。
そう……一匹のホーンラビットが、俺の足に擦り寄っているのだ。
「ッ!!?!?」
声にならない叫びが飛び出しそうになったが、なんとか抑え込む。下手に大声を出してホーンラビットを刺激するほうが何倍も恐ろしいと、脳が瞬時に判断を下したのだ。氷の彫刻と化した俺に、サイプルが軽く笑いかけてくる。
「そんなに緊張しなくても、大丈夫ですよ。全ての魔獣が凶暴というわけではありません」
恐怖を取り除こうと少年は穏やかにそう語りかけてくれるが、そう言われても、こちらとしては先ほどの説明を聞いた直後だ。硬直状態から抜け出せない俺を救うべく、サイプルは自身の胸をドンッと叩いた。
「それに、師匠には自分がいます。どうぞご安心ください!」
キラリと白い歯を輝かせ、力強く言い放つ少年。頼もしいその言動に、通常であれば不安は搔き消されるのだろう。しかし、残念ながら俺のビビり心は立ち去ろうとしなかった。
なぜかって? そりゃ……怖いモノは怖いからだ!
おっさんが情けない持論を胸に掲げている間に、いつの間にか絶世の美男子は身を屈めホーンラビットの頭に手を置いていた。サイプルはモフモフとした毛並みに沈めた手をゆっくりと動かしていく。
触れられたことに対し、ホーンラビットが威嚇してきたり戦闘態勢になるようなことはなかった。それどころか気持ちよさそうに目を細め、サイプルの穏やかな手つきを歓迎すらしているようだ。
想像とは違うホーンラビットの反応に、俺は目を見開いた。
「い、意外に人懐っこいんだな。こいつが特殊なのか?」
「いえ、ホーンラビットはみんなこんな感じです。攻撃的なほうが、特殊個体ですね」
「へぇ……」
それを聞いて俺の臆病な心が影を潜めていく。俺は膝を折り曲げ、ホーンラビットとの距離を縮めてみる。若干腰は引けているものの、魔獣の顔を観察してみると、頭に角が生えていること以外は本当に俺の記憶にある兎そのままだった。親近感ある愛くるしさに、思わず頬が緩んでしまう。
『可愛いですね、マスター』
「そうだなぁ~」
「ふむ。中々のふわふわ具合……師匠も触ってみますか?」
「えっ!? い、いや、俺は止めておくよ。まだ怖いし……」
「そうですか。では、慣れるためにも触っておきましょう!」
「拒否権無しかよ!?」
俺の意見など無視し、サイプルはすぐさま行動に出た。ひょいと軽々ホーンラビットを抱き上げると、満面の笑みを向けてくる少年。嫌な予感しかしない。
「さっさっ! 何事も経験が大切です! どうぞ!」
「うわっ!? やっぱり、そうきたか……! ギャー!! 止めろ! 俺に魔獣を押し付けようとすんじゃねぇ!」
『サイプル様、無理強いはダメですよ! マスターにはマスターのペースがあるんですから』
「む? 了解した」
華の制止の声にサイプルは素直に従う。美少年の腕から解放され、地面に着地したホーンラビットを見て、俺は安堵の息を漏らした。すると、ここでサイプルが何かを思い出したようにポンッと手を打つ。
「そういえば、こいつらの角は薬の材料として重宝されているんでした」
「へぇ、こういうものも薬の材料になるんだな」
さすがは異世界。物知りなサイプルに感心しながら、ホーンラビットの角に目を向ける。すると、少年の手がおもむろにホーンラビットの角を掴んだ。
――ポキッ!
「は?」
軽快な音が空気を震わせた。かと思えば、ホーンラビットの角が根元のほうから折れてしまっている。何が起こったのか分からない俺は唖然となり、魔獣の頭上から消えた角の行方を目で追った。
「なるほど。ホーンラビットの角とはこういう感触なのか……思っていたより、脆そうだな。確かに、これなら砕けば粉薬として調合しやすいか……」
角を折った張本人であるサイプルは、手元にある角のあちこちに触れながらブツブツと感想交じりの独り言をこぼしている。俺は、ハッ! と我に返ると、少年から角を取り上げた。
「師匠?」
「お前は……! 何してんだっ!」
「ぁだ!?」
形のいい頭に、おっさんの拳骨が落ちる。突然の打撃に、サイプルは目を白黒させていた。
「師匠、いきなり何をするんですか!?」
「それはこっちの台詞だ! お前、なんてことしてんだよ!?」
「はい?」
きょとんとしているサイプルの眼前に、俺は無残な姿となったホーンラビットの角を突き付けた。
「これだよ! 自分が何したか分かってるのか!?」
「? 角を折っただけですが?」
「だけって、レベルの話じゃねぇだろ! いくら薬になるからって、角を勝手に折るなんて……!」
「いけませんか?」
「ダメに決まってるだろ!?」
俺の怒声に深紅の瞳が瞬く。そして、少年の首がコテンと傾いた。
「何故?」
純真無垢な子供のように疑問を口にする少年に、俺は一瞬言葉を失った。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。まがいなりにも、俺はコイツの師匠になったんだ。今後のためにも、伝えるべきことはきちんと伝えておこう。
「あのな、サイプル。いくら相手が魔獣でも、敵意のないやつを無暗に傷つけたらダメだ」
「師匠?」
「ホーンラビットの角は、価値あるものなのかもしれない。でも、だからといって誰も傷つけていない生き物を殺していい理由にはならないんだ」
強く真剣な声音で、俺は人としての道理をサイプルに贈る。だが、少年の心に俺の思いは届いていないようだった。コテンと首を傾けているサイプルに、俺はもどかしさを覚えながらも、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「お前はステータスが高いし、知識だって豊富だ。力も知恵もあるお前なら、欲しいモノや価値あるものを簡単に手に入れることができるのかもしれない。でもな、そのために何かを犠牲にするなんてことは絶対にしてはいけないことだ。魔獣だけじゃない、それは人にだって言えることだ……強い奴は、弱い奴を守らないといけないんだ」
俺は折られてしまったホーンラビットの角を握りしめ、サイプルを真っ直ぐに見据えた。
「力があるなら、伸ばされた手を掴み上げてやれ。知恵があるなら、悩んでるやつを助けてやれ。それが本当の強さだ。間違っても、自分の欲を満たすために他の人から奪い、搾取するようなことは絶対にするな。たとえ、お前が神様でも……いや、未来の神様だからこそ、強欲な馬鹿どものために、罪のない人たちが涙を流すような世界を赦してはいけないんだ」
サイプルには立派な神様になってほしい。自分のためであれば悪戯に生き物を傷つける残酷な存在になんかなってほしくない。そんな願いを込めて、俺は必死に想いを告げる。しかし、少年の心には何も響いていなかった。
「えっと……?」
明らかに戸惑っている少年を見て、俺はほんの少しだけ悲しくなった。
神と人では分かり合えない壁がある。それを突き付けられたような気持ちだ。
俺は角を握りしめていた手の力を抜くと、小さな溜息を零した。
今は無理かもしれない。でも、いつかは俺の言葉の意味を少しでも分かってくれる日がくるかもしれない。それがいつになるのか凡人の俺には分からないけど、一応、こいつの師匠として導けるだけは導くつもりだ。
俺みたいなおっさんと違って、サイプルはまだ若いから頭の中とかは凝り固まっていないはず。だったら、諦めずに人として……いや、この世界を守る存在として大切なことを根気強く伝えていこう。そうすれば、きっと――
そんな僅かな希望を目の前にいる神様の子供に託すため、俺は新鮮な空気を深く肺に取り込んだ。
「ホーンラビットのことは、もう取り返しがつかない。だから、せめて今回のことを教訓として――」
『マスター、サイプル様のお話を聞いてあげてください。あと、ホーンラビットはピンピンしています』
「ん……?」
プップー! と少し強めのクラクションで俺の言葉を遮り、華が会話に割り込んできた。




