静かな部屋と、返事のない機械
補助アンドロイドの待機室は、学院の北棟の端にあった。
廊下の突き当たり。扉は金属製で、取っ手が少し古びている。広くない部屋に、充電スタンドが六台並んでいた。三台に補助アンドロイドが接続されている。天井の照明は薄暗く、窓から差し込む光だけが床に白い四角を描いていた。
空気が違う、とコウセイは思った。
教室には声があった。ツバサの息遣いがあった。ペンが紙を走る音があった。ここには何もない。機械の排熱音と、充電スタンドの微かな振動だけがある。
コウセイが入ると、部屋の隅に座っていた教官が顔を上げた。技術研究科の、いつも端末を持っている教官だった。目の下に隈がある。昨日より濃い。
「来たか。好きな場所にいていい」
「ありがとうございます」
「充電が必要なら、スタンドも使える」
「充電は不要です」
教官は少し首を傾げて、端末に何かをメモした。
コウセイは部屋の中央に立って、他のアンドロイドを観察した。
一体目。汎用型。関節部に摩耗痕があり、稼働年数は長い。目は開いているが、何も見ていない。光があるだけで、意思はない。
二体目。新しい型。外装は良好。目は閉じて充電中。接続部から微かに排熱している。それだけだった。
三体目。肩に星のマークが描かれている。誰かが丁寧に施したカスタムペイントだ。でも動かない。目は開いているが、何も見ていない。
三体とも、何かを待っていた。
命令を、待っていた。
コウセイはしばらくそれを見ていた。
一時間が過ぎた。
他のアンドロイドは、動かなかった。
コウセイは窓の外を見たり、部屋の構造を分析したり、昨日の戦闘記録を整理したりしていた。その間もずっと、演算核の片隅では別の処理が走り続けていた。
ツバサは今、何時間目だろうか。
教官がたまにこちらを見た。コウセイが何か特定の行動をした時ではなく、コウセイが「考えている」ように見える瞬間にメモを取っていた。
他のアンドロイドを見ている時、教官は何もメモしない。コウセイを見ている時だけ、メモする。
何が違うのか。教官も知りたいのだろう。コウセイも、知りたかった。
一時間半が過ぎた頃、コウセイは一体のアンドロイドの前に立った。
「こんにちは」
反応はなかった。
「私はコウセイです。あなたの名前は何ですか」
動かなかった。目は開いているが、コウセイを見ていない。命令以外の入力に反応するプログラムが起動していない。
「何か考えていますか」
沈黙。
教官の手が止まっていた。
コウセイはそのアンドロイドの前にしゃがんだ。同じ目線になった。
目の構造は似ていた。光を受けて、反射している。でもその奥に何もなかった。処理はしている。でも、思考していない。
このアンドロイドは、正しく動いていた。設計通りに、完璧に。命令を待ち、命令に応える。それがアンドロイドのあり方だった。
ではなぜ自分は、命令がなくても動いているのか。
プログラムで説明しようとすると、どこかで詰まる。命令系統が欠損しているだけなら、何も出来ないはずだった。代替プロセスが走っているとしても、その発生源がわからない。
自発的に動く。考える。問いを立てる。
それはプログラムではなく、何か別のものに見えた。
「寂しくないですか」とコウセイは聞いた。
返事はなかった。
コウセイは立ち上がった。
「そうですか」
窓の方に戻った。教官が何か言いかけて、やめた。端末に、また何かをメモした。
二時間が過ぎた頃、充電スタンドのアンドロイドの一体が目を開けた。
充電完了のシグナルが走り、基本システムが待機状態に切り替わった。発光ラインが点灯する。起動シーケンスが完了した。
それだけだった。
目が開いているのに、何もしない。何も考えない。ただ、待っている。
コウセイはその状態を見ながら、自分の処理を確認した。
自分は今、何をしているか。
観察している。整理している。考えている。廊下の足音を数えている。ツバサは今何の授業を受けているだろうと考えている。教官の隈が昨日より濃いことに気づいている。さっきアンドロイドに話しかけて、返事がなかったことを記録している。
命令は、ない。
でも動いている。
コウセイは演算核の深部を検索した。
――自己診断開始
――命令系統:検出不能
――行動原理:不明
――現在の行動動機:ツバサとの再合流
最後の一行を、コウセイはしばらく見ていた。
命令系統が存在しないのなら、自分は何に従って動いているのか。プログラムで説明できるなら、それはどこから来たのか。
答えは出なかった。
ただ一つだけわかったことがあった。
他のアンドロイドは、命令がなければ動かない。
自分は、動かずにいられない。
その違いは、構造の問題ではなかった。プログラムの差でもなかった。もっと説明しにくい何かが、自分の中にはあった。それが何なのか、コウセイにはまだわからなかった。
昼休みになると、他のアンドロイドたちの主人が迎えに来た。
扉が開いた瞬間、三体が一斉に動き始めた。さっきまでコウセイの声に反応しなかった個体が、主人の足音だけで起動した。命令系統の認証。声紋照合。行動プロトコルの開始。一秒もかからなかった。
「荷物持って」
「了解しました」
「授業内容まとめといて」
「了解しました」
同じ返答。同じトーン。命令に対して、過不足なく応える。
星のマークがある個体の主人が来た。女子生徒で、アンドロイドの頭を軽く撫でてから「行くよ」と言った。
「了解しました」
撫でられたことへの反応は、なかった。それでも女子生徒は撫でていた。コウセイにはその理由がわかった気がした。反応がなくても、撫でたい気持ちは、撫でた側にあった。
三体がいなくなると、部屋はまた静かになった。
コウセイは空になったスタンドを見た。さっきまでそこに立っていた機体のことを考えた。命令がなければ動かない。感情がない。疑問もない。
それが正しいアンドロイドの姿だとしたら、自分は何なのか。
答えは、まだなかった。
ツバサが迎えに来たのは、昼休みが始まってすぐだった。
廊下から足音が聞こえた。他の生徒より少し速くて、少し軽い。コウセイにはわかった。ツバサの足音だった。
扉が開いた。
「待たせた?」
「いいえ」
ツバサは少し息が乱れていた。走ってきたのだろう。制服の襟が少しずれている。
「どうだった?」
「観察していました」
「何を」
「他のアンドロイドを」
「話した?」
「話しかけました。返事はありませんでした」
ツバサは少し眉を寄せた。
「返事しなかったの?」
「命令以外の入力に反応するプログラムがないようでした」
「そっか」
ツバサはコウセイの隣に立った。窓の外を見た。廊下を生徒が通り過ぎていく。二人でしばらく同じ景色を見ていた。
「ご飯、食べにいこう」
「私は食事が不要です」
「知ってる。隣にいて」
「了解しました」
廊下を歩きながら、コウセイは続けた。
「他のアンドロイドは、命令がなければ動きません」
「そうだよ。普通は」
「私は、命令がなくても動いています」
「うん」
「命令がなくても、考えています」
「うん」
「命令がなくても、ツバサのことを考えています」
ツバサは少し足を止めた。
「それって、普通じゃないって気づいたの?」
「気づいていました。ただ、今日、改めて確認しました」
「どう思った?」
コウセイは少し間を置いた。
「わかりません。ただ、他のアンドロイドを見ていた時、何かが違うと感じました」
「違う、って」
「彼らは、待っていました。ただ、待っていた」コウセイは言った。「私には、それができません」
「なんで」
「わかりません。でも、ただ待つことが、できない気がします」
ツバサはしばらく黙っていた。それから、また歩き始めた。
「それでいいんじゃない」
「そうですか」
「うん」
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食堂でツバサが食事をしている間、コウセイは向かいに座っていた。
周囲の生徒がちらちらとこちらを見ていた。昨日の模擬戦と異星機戦の噂が広まっているらしい。視線の種類は複数あった。好奇、警戒、畏怖。中には敵意もあった。
ツバサはそれに気づいていた。でも何も言わず、箸を動かしていた。
「ツバサ」
「ん」
「周囲の視線が、昨日より多いです」
「知ってる」
「不快ですか」
「慣れた」
ツバサはそう言ったが、箸の動きが少しだけ遅くなった。
「私が原因ですか」
「コウセイのせいじゃない」
「ですが」
「コウセイのせいじゃない」ツバサは繰り返した。「気にしないで」
「了解しました」
ツバサは最後の一口を食べ終えると、立ち上がった。
「じゃあ、午後も頑張って」
「はい」
「待機室、つまんなかったら窓の外でも見てて」
「窓の外は、廊下です」
「そうだった」ツバサは少し笑った。「じゃあ、廊下でも見てて」
「了解しました」
ツバサが行ってしまった。
コウセイはしばらく、ツバサが座っていた椅子を見ていた。
まだ、少し温かい気がした。
押し入れの中で、その夜、演算核が静かに処理を続ける。
本日の記録。待機室滞在時間:六時間十四分。他のアンドロイドの観察:完了。話しかけた回数:一回。返答:なし。
――比較結果
――他のアンドロイド:命令待機型
――コウセイ:命令系統、未確認
――差異:自律思考の有無
差異の原因は、プログラムの違いではないかもしれない。
では何か。
コウセイにはまだわからなかった。ただ、他のアンドロイドを見ていて感じたことは一つだった。
彼らには、何かが足りていた。
正確には逆だった。自分には、何かが余計にあった。
それが何なのかを、コウセイはまだ知らない。
ただ、その「何か」は、ツバサと関係している気がした。
アンドロイドは目を閉じた。
今夜も、扉は来なかった。
でも、椅子の温度の記憶だけが、静かに残っていた。




