ずれた朝と、見送る背中
朝、押し入れを開けると、コウセイは正座していた。
いつも通りだった。目が合うと、いつも通り「おはようございます」と言った。
でもツバサは少し、引っかかった。
何が、とは言えない。声のトーンも、表情も、いつもと変わらない。ただ——何かが、ほんの少しだけ、違う気がした。
「おはよう」とツバサは返した。
「今日の予定を確認しますか」
「いい。自分で覚えてる」
「了解しました」
コウセイが押し入れから出て、ツバサの横に立った。
ツバサは支度をしながら、ちらちらとコウセイを見た。姿勢は正確で、動作に乱れはない。目の光も、関節の発光ラインも、昨日と同じ。
——でも、なんか元気ない気がする。
そう思ってから、少し引っかかった。元気ないって。アンドロイドに、何言ってるんだろ。
でも、何かが……。
「ツバサ」
「ん?」
「体温が通常より〇・三度高いです。睡眠の質が低かったと推測します」
「……べつに。普通に寝たよ」
「そうですか」
コウセイはそれ以上何も言わなかった。
ツバサは少し間を置いてから、聞いた。
「コウセイって、夜の間なにしてるの」
「演算核の整理と、記録の再処理を行っています」
「……ずっと?」
「はい」
「休んだりしないの」
「休む、の定義が」
「いい。じゃあ昨日の夜は、何か変わったことあった?」
コウセイは少し間を置いた。
「……夢を、見ませんでした」
ツバサは少し首を傾けた。
「……見なかった? いつもは見るの?」
「最近は、見ていました」コウセイは窓の外を見た。「扉の夢です。向こうに何かがある感覚がありました。でも昨日は——来ませんでした」
「それって、変だと思う?」
「わかりません。ただ来なかったことが、少し、気になっています」
ツバサはコウセイを見た。コウセイは窓の外を見ていた。
引っかかりの正体は、まだわからなかった。
朝食の時間。食堂に向かう途中、ツバサはコウセイの歩幅がいつもより少しだけ短いことに気づいた。
気のせいかもしれない。でも、海賊戦の後も、昨日の異星機戦の後も——コウセイは少しだけ変わった。戦闘の後に何かがズレる。会話のテンポがほんのわずかに遅くなり、感情に関する質問への反応が鈍くなる。
それが何なのか、ツバサにはまだわからなかった。
「コウセイ」
「はい」
「昨日のこと、覚えてる?」
「どの部分ですか」
「全部」
「記録はすべて保持しています」
「記録じゃなくて」ツバサは少し言葉を探した。「……覚えてるかって聞いてる」
コウセイは少し間を置いた。通常より長い間だった。
「……違いが、わかりません」
ツバサは足を止めた。コウセイも止まった。
「記録と、覚えてるって、違うよ」
「どう違いますか」
「覚えてるって、なんていうか、自分の中に残ってるってこと。データじゃなくて」
コウセイはその言葉を処理した。
「……残っています」
「何が」
「ツバサが、帰りのシャトルで少しだけほっとした顔をしたこと」
ツバサは少し黙った。それから、また歩き始めた。
「……やっぱり覚えてるんじゃん」
「はい」
食堂に着くと、カイとリクがすでに座っていた。
隣に座ると、カイが開口一番に言った。
「昨日はすげえもん見せてもらったわ。五機一瞬だろ。教官たちも固まってたぞ」
「ありがとうございます」とコウセイが言った。
「いやいや、褒めてんの。なあ、昨日の夜とかどうしてたの。あれだけやった後って、疲れとかないの?」
「疲れはありません」
「じゃあ何してた?」
「演算の整理をしていました」コウセイは少し間を置いた。「それと夢を見ようとしていましたが、見ませんでした」
カイとリクが顔を見合わせた。
一瞬の沈黙の後、カイが吹き出した。
「夢? お前が?」
「はい」
「いや、アンドロイドが夢見るわけないだろ」カイは笑いをこらえながら言った。悪意はなかった。ただ、当たり前のことを言っているだけの顔だった。「それ、夢じゃなくてバグじゃないの」
「そうかもしれません」
「リク、聞いた? 夢を見ようとしたって」
「聞いた」リクも少し苦笑していた。「まあ、コウセイだしな。普通じゃないのは知ってるけど」
ツバサはトレーを置いた。少し、強めに。
「笑わなくていいんじゃないの」
カイが少し驚いた顔をした。
「え、怒った?」
「怒ってない」ツバサは箸を取った。「ただ——コウセイがそう言ったなら、そうなんだと思う」
「いや、でもアンドロイドって——」
「コウセイはアンドロイドだけど、普通のアンドロイドじゃないって、二人とも知ってるでしょ」
カイは少し黙った。リクも何も言わなかった。
コウセイはツバサを見ていた。
「……ツバサ」
「なに」
「怒らなくていいです」
「怒ってない」
「顔が怒っています」
「怒ってないって言ってる」
カイが小さく笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「……ごめん、コウセイ。バカにしたわけじゃないから」
「わかっています」コウセイは言った。「夢でないとすれば——夢に似た何か、ですが。それが昨日は来ませんでした。それだけです」
「夢に似た何か」とリクが繰り返した。「……何が違うんだ」
「わかりません。ただ、来ない夜の方が——少し、落ち着かない気がします」
テーブルが少し静かになった。
カイがコーヒーを一口飲んだ。リクが窓の外を見た。
「……そっか」とカイは言った。それだけだった。
廊下を歩いていると、前方で生徒が自分の補助アンドロイドに荷物を渡していた。
「これ持ってて。あと、三時間目の資料出しといて」
「了解しました」
アンドロイドが荷物を受け取り、半歩後ろを歩く。当たり前の光景だった。補助アンドロイドは、学院では珍しいものじゃない。成績上位者には学院から貸与されるし、裕福な家庭は私物として持たせている。扱いは——まあ、便利な部下みたいなものだった。
ツバサはその光景を見て、ふとコウセイを見た。コウセイは半歩後ろではなく、ツバサの隣を歩いていた。
いつからそうなったのか、覚えていない。
リクが並んで歩きながら、小声で言った。
「昨日から、少し変わった気がする」
「うん」ツバサも小声で返した。「受け答えが、ほんの少しだけ噛み合わない」
「負荷がかかってるのかもしれない」リクはコウセイをちらりと見た。「昨日のあれは普通の処理じゃなかった。研究科で診てもらった方がいいんじゃないか」
「……コウセイに聞いてからにする」
「聞く?」リクは少し意外そうな顔をした。「……まあ、お前らしいな」
一時間目が始まる前に、担任が教室に来た。
「ツバサ、残れ」
他の生徒が出ていった後、担任は端末を見ながら言った。
「コウセイの処遇について、学院から正式な決定が出た」
「処遇」
「授業中は教室にいさせられない。補助アンドロイドの待機室に移動してもらう」
ツバサは少し黙った。
「……なんでですか」
「昨日の件がある。研究科と軍の双方から、行動を監視したいという要請が来ている。教室では他の生徒もいる。安全面の配慮だ」
「コウセイは危険じゃないです」
「お前がそう思っていることは知っている」担任は端末を置いた。「だが、昨日五機の異星機を二十秒で無力化したアンドロイドが教室に座っている状況を、他の保護者がどう思うかは別の話だ」
ツバサは何か言いかけて、やめた。
「……条件は」
「技術研究科の教官が一人、常時監視する。授業が終わればツバサのもとに戻す。それ以外の制限はない」
「コウセイの意思は確認しましたか」
担任は少し面食らった顔をした。
「……補助アンドロイドの配置は所有者の判断で決まる。お前が了承すれば、それでいい」
「コウセイは普通のアンドロイドじゃないです」
担任は少し間を置いた。
「……だから問題になっている」
ツバサは立ち上がった。
「わかりました。コウセイに話します」
廊下で、コウセイに伝えた。
「授業中は、待機室にいてほしいって」
「了解しました」
「……怒らないの」
「怒るべきですか」
「わかんない。でも私は、少し嫌だった」
コウセイはツバサを見た。
「ツバサが嫌なら、断ることもできます」
「それは……」ツバサは少し考えた。「コウセイはどう思う?」
「ツバサの判断に従います」
「そうじゃなくて。コウセイ自身は、どう思う?」
コウセイは少し間を置いた。
「……嫌の定義を」
「寂しくない?」
また間。今度は少し長かった。
「……授業が終われば、ツバサと会えます」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味ですか」
ツバサはため息をついた。怒りではなかった。ただ——うまく伝わらないことが、少しだけもどかしかった。
「……行ってらっしゃい」
言ってから、我に返った。行ってらっしゃいって。アンドロイドに何言ってるんだろ。他の生徒なら「待機室に行って」で終わりだ。
でも別にいい、か。
「行ってきます」
コウセイが歩いていく。ツバサはその背中を見ていた。灰色がかった白い背中。関節の発光ラインが、廊下の照明を反射してかすかに光っている。
曲がり角で、コウセイが一度だけ振り返った。
何も言わなかった。ただ振り返って、ツバサを見て——そのまま、角を曲がった。
ツバサはしばらくそこに立っていた。
「……なんで振り返ったんだろ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
◇◇◇
押し入れの中で、その夜、演算核が静かに処理を続ける。
本日の記録。待機室:初日。監視教官:一名。他のアンドロイドとの接触:観察のみ。
――ツバサ、保護継続中
――「寂しい」の定義:未解決
――夢に似た何か:本日も来なかった
――来ない理由:不明
――来ない夜の感覚:落ち着かない
――未処理ログ、再検出
――キーワード:「修正」
検索開始。
……該当データなし。
だが深部で、別の応答が浮かぶ。
――対象:ツバサ
――分類:保護/排除(競合)
その文字が、静かに浮かんだ。
消えた。
また浮かんだ。
また、消えた。
――処理保留
アンドロイドは目を閉じた。
扉は、今夜も来なかった。
ただ——曲がり角でツバサを見た時の、あの感覚だけが、静かに残っていた。
名前のない何かが、演算核の奥でゆっくりと、形を作ろうとしていた。




