第三百三十四話 Episode:篝【もっと】
七月二十一日。
僕の身体は安定していた。
「篝様。退院は二十四日でしたよね?」
「うん」
宵くんの言葉に頷いた。
三日後。
僕は退院して、籠屋市内に用意された療養用の屋敷へ移る。
だから、
どうしても気がかりなことがあった。
「……将棋さ」
「?」
「退院したら僕の家でやろうって言ったけど、
退院後は違う場所へ行くことになったんだよね」
視線を落とす。
「……ごめんね」
白い部屋に、蝉の鳴き声だけが響いた。
その時、
「知っていますわよ!」
灯さんの明るい声が空間を裂いた。
「篝様の退院後については、十哉様から聞いておりますわ!」
灯さんに、宵くんが続く。
「将棋はもうここでやれましたし。場所は関係ありませんよ!」
「ご実家でなくても、篝様と一緒にできることが嬉しいのですわ!」
——そうなんだ。
「それに、篝様もそのお屋敷に行くのは初めてなんですよね?」
宵くんが首を傾げた。
「楽しみじゃないですか!初めての場所!」
「一体、そのお家はどんな天井なのかしら!」
「……ふふ」
初めて行く場所が、少しだけ楽しみになった。
「着いてきてくれるの?」
「むしろ、着いて行ってもよろしいのですか?」
宵くんが照れくさそうに笑う。
「篝様がよければ、一緒に行きたいですわ!!」
「もちろん」
僕も自然と頬が緩んだ。
「それに、今日の夕方はあの公園へ行く予定ですわよね!?」
「うん」
「今日こそターザンロープ、やりましょう!!」
二人が笑う。
窓から差し込む日差しが、その笑顔を照らした。
「あ……」
ほんの一瞬、
二人の姿が光に透けて見えた。
目を擦る。
「……篝様?」
灯さんが僕の顔を覗き込んだ。
今度は、透けてない。
「大丈夫。ちょっと目にゴミが入っただけ」
……気のせいとは思えなかった。
*
午後五時。
日中の暑い時間を避け、
僕たちは、またあの公園に来た。
「……あつ」
空を見上げる。
今日は、雨の心配もなさそうだった。
「——あら」
灯さんが眉をひそめた。
「平日なら空いていると思ったのに、人が多いですわね」
「まぁ……夏休みですからね」
十哉さんが呟く。
「「夏休み!」」
二人の声が重なった。
確かに。
僕はほとんど学校に行っていないから、すっかり忘れていた。
「二十一日……!ちょうど今日からなのでは!?」
二人も、僕と同じだったみたいだ。
「ですが、もう五時ですから。
もうじき人は減ると思いますよ」
十哉さんが辺りを見渡す。
「少し待ちましょう」
公園には子どもたちの声が飛び交い、
ターザンロープの前には列ができていた。
「……」
外出を許された時間は一時間。
僕たちには、時間がないのに。
「篝様!ブランコ空いてますよ!」
宵くんがブランコを指差す。
「……ブランコは一人乗りでしょ?」
「私たちが押しますわ!乗ってください!」
「僕たち、ブランコは散々乗ってますから!」
……あ。
庭にあったんだっけ。
「……十哉さん」
僕は十哉さんを見た。
「どうぞ。やって来てください」
十哉さんが微笑む。
「そのために、篝様は治療を頑張ったのですから」
「……うん」
「さあ、早く行きましょう!」
二人に手を取られ、
僕は人生で初めてブランコに座った。
「えっと……」
「足を伸ばしたり折ったりして、漕ぐのですわ!」
「僕たちが押すので、篝様は前を向いていてください!」
「……わかった」
心臓の鼓動が速くなる。
どんなものでも、初めてはこわい。
どうなるのかわからないし、
うまくできなかったらどうしようと不安になる。
それでも、
「大丈夫ですわ!」
誰かがそばにいてくれるだけで、
やってみようと思えるんだ。
「行きますよ!」
「……わ」
ブランコがゆっくり動き始めた。
一回、二回。
ブランコを漕ぐたびに、空が近づいた。
——青い。
白い部屋から何度も見ていた空。
今日はいつもと違う青に見えた。
ああ。
初めての先には、発見があるんだ。
二人がいれば、
きっと、新しいものにも挑戦できる。
——もっと二人にいてほしい。
もっと、二人といたい。
「いい天気ですわね」
「……あの空の向こうでさ」
背後から二人の話し声が聞こえる。
「お父様とお母様が待ってるのかな」
「……っ」
僕の視界の中で、青い空が滲んだ。
「篝様!」
十哉さんが僕を呼んだ。
「ターザンロープ、空きましたよ」
青い空には、雲一つ見えなくて。
到底、雨が降る気配はなかった。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:10月2日21時
第三百三十五話 Episode:篝




