第三百十二話 やっと会えたね
「着きました」
車が止まったのは、一時間半ほど経った頃だった。
「……ここ?」
窓の外を覗く。
目の前にあったのは、二階建ての小さな民宿だった。
少しくすんだ白い壁に、年季の入った瓦屋根。
雨に濡れた軒先で、色褪せた暖簾が揺れている。
「どうぞ」
初老の男性が、先に運転席から降りて傘を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
車を降り、傘を広げる。
潮の匂いが鼻をかすめた。
「……海」
雨の向こうに、海が見える。
灰色の水面に何隻もの漁船が浮かび、波に合わせてゆっくりと揺れていた。
『こんなとこにいんのかよ』
「……みたいだね」
霧島本家とは、まるで違う。
「行くよ」
響さんは軒下で傘を閉じ、民宿の暖簾をくぐった。
僕も、その後を追う。
この中に——
僕の父親がいる。
「おかえりなさいませ、響様」
暖簾をくぐると、聞き覚えのある声がした。
「お待ちしておりました」
「あ……」
玄関に立っていたのは、霧島本家で見かけた侍女だった。
「傘をお預かりいたします」
古びた下駄箱。
壁に貼られた観光案内。
その前で深々と頭を下げる着物姿が、ひどく場違いに見える。
「詠慈様がお待ちです。どうぞこちらへ」
「……はい」
靴を脱いで、用意されたスリッパに履き替える。
響さんに続いて、細い廊下を歩いた。
外から聞こえていた雨音が遠ざかり、代わりに僕たちの足音が響く。
すれ違う宿泊客もいない。
開いた食堂にも、人の姿はない。
『……誰もいねぇな』
「貸し切ってるの」
響さんはそれだけ言って、足を進めた。
階段を上がる。
二階の廊下を進み、一番奥の部屋の前で侍女が立ち止まった。
「こちらです」
「……ここ」
急に、心臓が大きく鳴った。
侍女が襖に手をかける。
「詠慈様。白瀬柊様と颯様がお見えになりました」
「——どうぞ。入って」
襖越しに、あの人の声が聞こえた。
「失礼いたします」
侍女が襖に手をかける。
ガタッ。
少し引っかかるような音を立てて、襖が開いた。
畳の部屋。
窓際に置かれた小さな座卓の前に、詠慈さんが座っていた。
「……」
——白い半面。
半面の奥の瞳が、
真っ直ぐに僕を見ていた。
「響。お迎えありがとう」
「いえ」
僕の隣で響さんが頭を下げる。
「……席、外してもらえる?」
「わかりました」
響さんは部屋に入ることなく、その場で踵を返した。
「終わったら呼んで」
それだけ言って、響さんは廊下を歩いていった。
侍女も一礼して、その後を追う。
再び、襖が閉まった。
部屋に残ったのは——
僕と颯。
そして、詠慈さんだけだった。
「どうぞ」
詠慈さんが座卓の向かい側を指す。
「……はい」
スリッパを脱ぎ、畳を踏み締めた。
一歩ずつ、近づく。
詠慈さんに会うのは三回目。
「そこへ座って」
それなのに、
向き合って話すのは初めてだった。
「遠かっただろう?」
「いえ……迎え、ありがとうございます」
小さく会釈する。
「それに、
こんな時に会ってくださってありがとうございます」
おそるおそる視線を上げた。
半面に隠されて表情はわからない。
「……ううん」
「……えっと……」
何から話せばいいのかわからない。
沈黙の中で、雨の音だけが聞こえた。
ゆっくりと、詠慈さんの唇が動く。
「……教えてくれる?」
「え?」
「どこまで知った?」
『……』
颯は、
僕が話すのを待ってるみたいだった。
息を深く吸って吐いた。
「僕は、あなたと母さんの息子で……」
声が震える。
「あなたと母さんは……
僕の存在を……隠すために別れたんですよね」
目の奥が熱い。
今、泣きたくなんかないのに。
「僕に封印をかけたのも……
十七年間……一度も僕に会いに来なかったのも……
僕を守るためだったんですよね」
どうして言葉にすると、
涙が出てくるんだろう。
『だけど』
僕の気持ちを察したみたいに、
颯が言葉を継いだ。
『俺が半霊になって、
結局柊は祓い師の世界に関わることになった』
「……颯」
『俺との共霊がきっかけで、封印も解けかけてた。
封印が完全に解けたら柊の存在がバレると思って、
花火大会の日、もう一度封印をかけにきたんだろ』
「……」
詠慈さんは何も言わない。
ただ、真っ直ぐこちらを見ていた。
『柊があんたに会いに行った時、“父親だ”って言ってやらなかったのは、母さんとの約束だったからか?』
詠慈さんの指が、半面に触れた。
——『君を守るためなんだ』
あの夜も。
——『和音の……父親ですよ』
あの日も。
僕は、
この人の顔をちゃんと見られなかった。
カラン……。
白い半面が、座卓の上に置かれた。
「やっと会えたね」
丸い輪郭。
末広の二重。
和音くんに似ている。
違う。
——僕にも、似ている。
「柊」
僕の名前を呼ぶその声は、
痛いほどに優しかった。
『……似てんな』
何も言えなかった。
ただ、
目の前の父親の顔を見ていた。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:9月14日21時
第三百十三話 思い通りに




