第二百九十二話 怖くない天才
「なるほどな〜」
紺士は顎に手を当てて呟いた。
「半分くらい削れたか」
離れていてもわかる。
紫苑さんの霊力は、
もうさっきまでとは違う。
『紫苑、大丈夫かよ…』
紫苑さんはぐったりとして、
狛さんに身体を預けていた。
右側だけ赤黒くただれた顔。
閉じた右目から、赤い血が流れている。
苦しい。
見ていられなくて、僕は視線を落とした。
「……十哉……」
僕の隣で深雪さんの膝が崩れる。
「十哉様……ううっ……」
背後からは灯さんの啜り泣く声が聞こえた。
紫苑さんだけじゃない。
十哉さんも——消えた。
ポツ……ポツ……。
雨が静かに降り始め、
庭の水面に波紋を描いていく。
どうしようもなく、息が詰まる。
なのに、
「蒼ちゃん、今なら紫苑ちゃんやれるよ⭐︎」
この男だけは楽しそうだった。
「……必要ありません」
「お前天才フェチだもんな⭐︎」
拳を握りしめる。
だけど何も言葉が出ない。
雨音だけが、しばらく庭に響いた。
「蒼嶺お兄様」
葵さんが蒼嶺に歩み寄る。
「霧島家に向かいましょう。
一網打尽にするチャンスです」
——そんな……!
このまま、霧島家まで襲うつもりなのか!?
「無駄無駄」
紺士が手を挙げた。
「本家行ったって、どうせもういねぇよ。
今ここに来てない時点でわかんだろ」
「……そうですね」
蒼嶺は紺士の言葉に頷いて、
僕たちに背を向けた。
「おみゆも狭霧も賢いからな〜」
深雪さんを見る。
深雪さんは水の中に膝をつき、
両手で顔を覆っていた。
……こうなる可能性を考えて、
霧島家に指示を出していたのか。
「葵。帰ろう」
「……御影篝は?」
「別に殺したいわけじゃないだろ?」
「ですが……」
葵さんが篝くんを見る。
篝くんは、
水に沈まないよう宵くんと灯さんに支えられていた。
二人は少しだけ輪郭を取り戻していた。
「篝はもう戦えないさ」
篝くんの頬に雨が伝って、
まるで泣いているみたいだった。
「行くよ。後で教えてあげるから」
「……はい」
葵さんが蒼嶺の後を追った。
二人が去ってしまう。
「待って!!」
僕は叫んだ。
「篝くんに何をしたんですか!?」
蒼嶺の足が止まる。
「……別に?昔話をしただけだよ」
「昔話って!?」
「大事なこと、忘れちゃってたみたいだからさ」
「それって……」
——パンドラの箱?
「どんな話ですか?」
蒼嶺が振り返って僕を見た。
紺士と同じ、青色の瞳。
「忘れちゃいけない罪の話」
——『人を殺していますね。しかも、何十人と』
「……病院の火事?」
「何だ。君も知ってるんじゃないか」
蒼嶺が笑う。
歪んだ笑い方は、
紺士にそっくりだった。
「じゃあ俺が教える必要はないね」
ああ、そうか。
篝くん。
ごめん。
その時は、僕も一緒だって言ったのに。
君は一人で、
箱を開けてしまったんだね。
いや、
無理やり開けられてしまったんだ。
思い出せなくなるほど、
抱えきれなかった記憶の蓋を。
そして、
絶望したんだ。
——許せない。
「謝って」
「謝る?誰に何を?」
「篝くんに、傷つけたことを謝って」
「……」
蒼嶺が目を丸くした。
「……ははっ……」
何故、こいつらは笑うんだ。
「謝るわけないだろう。
俺は真実を教えてあげただけだし」
『てめぇ!!』
「篝が勝手に壊れたんだよ」
「お前が壊したんだ……!」
目頭が熱くなる。
悲しいわけじゃない。
どうしようもなく悔しい。
篝くんが壊れた。
紫苑さんは倒れた。
十哉さんも消えた。
僕は、何もできていない。
なのに、
力だけはある。
「腹が立つなら今ここで俺を殴れば?」
「……っ!」
拳に力を込めた。
そうだ。
いつかは、この人とも戦わなきゃいけない。
だったら今ここで——。
『柊』
颯が僕を呼んだ。
『俺はムカついてる』
低い声だった。
『こいつ、ぶん殴りてぇよ』
「……颯」
『でも、お前は違うだろ』
「……」
返す言葉がなかった。
『本気で殴れんの?』
——覚悟してるのか。
そう問われた気がした。
握りしめた拳を、ゆっくり解く。
「……何もしないなら、俺は帰るよ」
蒼嶺は前を向き直った。
「紫苑は君のこと“面白い”って言ってたけど、本当にそうだね」
蒼嶺が足を進める。
もう目線は合わない。
「紫苑と違って、少しも怖くないけれど」
「……」
下唇を噛み締めた。
「君に賭けたのは紫苑の計算ミスだな」
その時、
「蒼ちゃーん」
紺士が蒼嶺を呼んだ。
見上げると、
母屋の屋根の下方、軒先近くに紺士がしゃがみ込んでいた。
その上方では、狛さんが紫苑さんを抱えている。
——いつの間に。
「天才っていろんな種類あるんだぜ?」
紺士は二人を親指で差した。
「お前天才じゃないから知らんかっただろ⭐︎
あはははははは!!」
紺士の視線が僕へ移る。
「白瀬柊?だっけ?」
「……はい」
「俺は期待してるよ」
その言葉だけは、軽くなかった。
「どうせやるなら楽しい方がいいじゃん⭐︎?」
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月30日12時
第二百九十三話 タイトル未定




