第二百九十一話 一人のために
「……っ」
何と言えば良いかわからなかった。
この人は久世家の当主なのだから、
霧島詠慈の素顔を知っていてもおかしくない。
だけどそれだけじゃなくて、
この人は霧島詠慈……
いや、僕の実父をよく知っている気がした。
「紺士先生」
深雪さんが僕の横に立った。
「おお!おみゆ〜⭐︎相変わらずクソべっぴんだな!
何歳になったんだよ!」
紺士が笑う。
「彼は白瀬柊くんです」
「アホか、本物の詠慈だとは思ってねぇよ」
紺士が口の中の血を吐き出す。
水面に赤黒い血が滲んで広がった。
「でも詠慈の子だな」
紺士は立ち上がると、
僕を真っ直ぐに見据えた。
目を……逸らせない。
『……紫苑がバラしたか?』
「いや、違うと思う」
言わなくても、
この人には見抜かれる気がした。
紫苑さんみたいに。
「母親、綾だろ?」
ドクン!
心臓が大きく跳ねた。
「ちが——」
『ちげぇよ!!』
僕より先に颯が叫んでいた。
「必死だな!図星かよ!あはははははは!!」
「……っ」
この人の笑い声は、
どうしてこんなに不快なんだろう。
僕は眉をひそめた。
紺士が羽織のポケットに片手を突っ込む。
「うーわ、タバコ終わってる⭐︎」
そう笑って、タバコの箱を水面へ捨てた。
水に浮かんだタバコが深雪さんの方へ流れていく。
「あいつら高校ん時からできてたもんな〜。
こっそり子ども作ってたとかウケるわ!」
「紺士先生。二人を馬鹿にするのは許しませんよ」
深雪さんの声には怒りが滲んでいた。
「してないしてない⭐︎おみゆ、顔怖いよ〜?」
「うるさい……!」
「深雪さん!」
僕は片手を広げ、
前へ出ようとする深雪さんを止めていた。
「で、あのクソガキはお前に託したわけね」
紺士は腕を組むと、僕を見下ろしながら言った。
——『次は、お前が天才役⭐︎』
紫苑さんの笑顔が脳裏を過ぎる。
「お前、詠慈と綾にそっくりで随分ぬるそうだな。
ま、紫苑ちゃんがここまでするんだから何かあるんだろうけど」
「父さん」
蒼嶺が僕たちの前へ出た。
「紫苑のところへ戻らなくて良いんですか?」
冷ややかな目。
……この二人、本当に親子なんだよな?
「もういいよ、大体わかったし。
ありゃ俺でも勝てねぇわ!あははははは!」
紺士が目を細める。
「蒼ちゃん、やりたかったらやってこれば?
あいつ今のお前じゃ相手になんねぇけど」
「……嘘……」
葵さんが呟いた。
「つーか、俺よりお前が戻った方がよくね?」
紺士の視線が狛さんへ移る。
「何だっけ?名前!あはははははは!
東雲の……犬みたいな、お前!!」
「……狛です」
「何でもいいわ!紫苑ちゃんそろそろリミットだぜ?」
「リミット……?」
屋根を見上げる。
紫苑さんは立ったままだった。
「お前さ、禁式使うとどうなるか知ってる?」
「あ……!」
——『特に、狛には絶対言うな⭐︎
……こんなの見たら、面倒になる』
狛さんは禁式の代償を知らない。
紫苑さんは、
ずっと隠してたのに……!
「——知っています」
狛さんの低い声が響いた。
「……え……!?」
「俺のせいで、紫苑は深い傷を負いました」
「え〜?それどっから聞いたの〜?」
紺士が口を尖らせる。
「……聞いたわけではありません」
「うちの極秘情報なんだけど⭐︎」
「俺は五年間、ずっと紫苑と一緒にいましたから」
——気づいてたんだ。
「お前らキモ⭐︎」
「……は?」
思わず声が出た。
“キモい”?
「俺、さっき犬って言ったけどさ〜」
紺士が狛さんを指差した。
「紫苑ちゃんの手綱握ってたの、お前じゃん!
あはははははは!!」
何がおかしい?
「……笑うな」
——『紫苑くんが久世家を破門されたのは、狛くんを守るためだったんだって』
——『紫苑さん、研究所でも禁忌を使ってる。
しかも、狛さんを守るためにね』
紫苑さんが、
どんな思いで禁式を使ったのか。
どうして狛さんが、
ずっと気づいていないふりをしていたのか。
——わからないのか?
「他人が笑っていいことじゃないだろ」
「え?こわ⭐︎他人ってか親代わりなんだけど⭐︎」
「なら、なおさらだろ!!」
『おい、柊……!』
また、声を張り上げてしまう。
「マジで綾みたいなこと言ってら」
紺士は鼻で笑った。
「笑うしかなくない?ねえ、蒼ちゃん?」
「父さん。紫苑は今も狛を守っていますよ」
“今も”?
『どういうことだよ!?』
狛さんが捕まったあの日から、
紫苑さんは、ずっと何か考えがあって動いていると思った。
まだ全然わからないし、
勘だけど、
やっぱり狛さんが関係しているんだ。
——紫苑さんだもんな。
「一人のためにここまでやる?わけわからん⭐︎」
「あなたと紫苑は違いますから」
答えたのは狛さんだった。
その時——
「……っ!?」
場を支配していた、
強烈な霊力が消えた。
まるで張り詰めた糸が切れるみたいに。
屋根の上、
紫苑さんの身体がゆらりと傾く。
瞬間、
黒い影が僕の視界を横切り、屋根へ跳んだ。
「紫苑さん!!」
——ドサッ。
倒れかけた紫苑さんを支えたのは、
狛さんだった。
雲の切れ間から、
月明かりが二人を淡く照らしていた。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月29日15時
第二百九十二話 怖くない天才




