第二百八十二話 Episode:紫苑【名前】
冷たい。
凄まじい速さで身体が流されていく。
僕は水中から濁った水面を眺めていた。
……あんまり考えてなかったけど、
ひいじいちゃんってばあちゃんの親か。
死んでも当主でありたいだなんて、バカだな。
どうやって保管されてたのかは知らないけど、
少なくとも蒼嶺についてから久世家を見てたってことか。
気づかずにいるなんて、
蒼嶺はもっとバカだ。
身体が岩にぶつかった。
痛い。
そう言えば、
蒼嶺にひいじいちゃんの霊をやったのは叔父だったな。
——『他にも何か見たいものあるんじゃない?』
……予想してたのか。
蒼嶺。
それがお前の親だよ。
じいちゃんのための綺麗事なのか、
本心なのかは知らないけどさ。
こんな家、一生まとまらないよ。
そのために必死になって、
結局、久世の亡霊に乗っ取られた。
お前、何のために生きてきたんだろうな。
——あ。
酸素、足りなくなってきた。
そろそろ上がらなきゃ。
戻る?
……戻ってどうすんの?
霊害を倒して、
ひいじいちゃんの亡霊倒して、
後継者のお墨付きをもらって、
久世の後継者になって、
ばあちゃんを喜ばせて、
久世家の天才として生きていく。
なんだ。
つまんない人生。
——『優しい目をしていたよ』
僕がいなかったら、
蒼嶺は久世家の後継者になった。
後継者争いなんて起こらなかった。
僕の両親も、きっと——。
ああ。
僕も、
何のために生まれてきたんだろう。
肺が苦しい。
目の前が暗くなっていく。
世界から音が消えていく。
孤独だ。
——『何を信じればいいかは自分で決めな』
——『天才なんだし?』
僕が、
天才に産まれたからか。
だから一人なんだ。
信じられるのは、自分の力だけ。
……でもさ、叔父さん。
僕、お前みたいに、
そんなに自分のこと好きじゃないんだよ。
自分のためだけに続く人生って、
楽しいと思えないんだけど。
じゃあさ、
僕、何のために生きるの?
なんか疲れた。
シャラン。
水の中で、
聞こえるはずのない音がした。
——『友達の誕生日を祝っています』
誕生日なんて、
初めて祝われたな。
……悪くなかった。
意識が遠くなっていく。
「紫苑!!」
暗い世界の中で、
その声だけがはっきりと響いた。
——紫苑。
神童でも、後継者でも、
天才でもなく。
僕の名前を、呼んでる。
何でだろう。
もう一度、
名前を呼んでほしいと思った。
弱いやつに呼び捨てされるのなんて、
大嫌いだったはずなのに。
「紫苑!!」
——『十三歳、おめでとう』
あいつの笑顔を、
思い出してしまった。
「助ける!!」
次の瞬間——
強く、腕を引っぱられた。
「……っは……!」
水面に顔を出すと、
鋭い眼差しが、
僕を真っ直ぐ捉えていた。
「大丈夫か!?」
「……っ狛……」
川石の上に立った狛が、
僕の腕を掴んで引き上げようとしていた。
ドガァンッ!!
「うっ!!」
巨大な前脚が、狛の背中を叩きつけた。
狛のバランスが崩れる。
僕の身体も流されていく。
——なのに、
狛は掴んだ腕を離さなかった。
バシャァンッ!!
狛は川の中へ落ちた。
濁流が僕たちを飲み込む。
濁った水の中、
狛の背後に霊害の前脚が迫る。
狛が僕の身体を引き寄せた。
僕を、庇うように。
ドゴォッ!!
巨大な前脚が、
狛の背中を水中へ押し込んだ。
……お前。
何しに来たんだよ。
——『弱いからと言って、守れないわけではありません』
だから、
お前が死ぬんじゃないか。
狛の身体から力が抜ける。
今、僕一人なら。
ここから上がって霊害を倒せる。
だけど、
こいつまで連れて行く余裕はない。
霊害を倒して戻ってくる頃には——
たぶん、遅い。
——『勝手に盾になる。放っておけばよい』
それでいい。
使い捨ての盾なんだから。
僕は、ゆきむすめにはならない。
——『ありがとう』
また、
あの笑顔が蘇る。
指先が、動いた。
見えない糸をほどくように。
——『……術者も力の一部を失うそうじゃ』
力?
今は、
そんなものどうでもいい。
それよりも。
失くしたくなかった。
たった一人。
僕の名前を呼ぶこいつだけは。
「久世禁式——」
シャラン。
——『友達守るのは当然だから』
守ってやるよ。
「契絶」
友達なんだろ?
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月22日12時
第二百八十三話 Episode:紫苑【飼い犬】




