第二百八十一話 Episode:紫苑【一つ】
蒼嶺は、僕の後ろをついてきていた。
「先に行かなくていいの?」
僕は振り返らずに聞いた。
「……お爺様は、“先に祓った方に褒美を”と言った」
「ああ」
漁夫の利、ね。
弱い蒼嶺が考えそうなことだ。
「素直に先に行った方が勝率上がるんじゃない?」
だって、
僕なら一撃で特級を祓えるから。
お前が狙う“隙”なんてない。
「紫苑」
「だから呼び捨てすんなって言ったよね」
「君はどうして、後継者になりたいの?」
——どうしてなりたいか?
「別に?なりたいわけじゃないし」
ぬかるむ山道を進みながら話した。
「強い者がなるんだから、僕がなるんでしょ」
単純明快。
それだけの話だ。
「君には夢や目標がないのか?」
「じゃあ、お前にはあるの?」
振り返って蒼嶺を見た。
その数メートル背後、
蒼嶺の守護霊が立っていた。
白髪混じりの紫髪。
久世家特有のあの髪型。
主人の傍につくでもなく、
黙って蒼嶺の背中を見ている。
……趣味悪。
「……俺は」
視線を戻すと、
蒼嶺の指先はわずかに震えていた。
怖いなら、やめればいいのに。
結果のわかりきった勝負なんだから。
「久世家を一つにまとめたいんだ」
「はあ?何で?」
僕は前を向き直り、再び足を進めた。
「お爺様は、“父さんの育て方を間違った”と言っていた」
「まあそうだろうね」
あんな倫理観に欠けたやつが出来上がったんだから。
「“もっと紺士の気持ちを聞いてやればよかった”と」
「“紺士は勝手にああなった”って、ばあちゃんは言ってたけど?」
「お婆様は、そうだろうね」
雨が、少しずつ靴の中を湿らせていく。
気持ち悪い。
「もっと、家族で足並みを揃えて協力し合えば、
久世家はもっと強くなると思わない?」
——また、綺麗事。
お前だって、
本当はそんなこと思ってないくせに。
「思わないね」
僕はきっぱりと言い放った。
「そもそも弱いやつの意見は通らないんだから。
お前だって知ってるだろ」
ふいに、
山道の脇に咲く、青と紫の紫陽花が目についた。
小さな花が集まって一つの花を成す。
この世で一番、気持ち悪い植物だ。
「もっと久世家がまとまっていれば、父さんだって……、
君の両親だって、あんなことにはならなかったはずだよ」
——僕の両親?
「いなくなったのは、じいちゃんが何かしたからでしょ?」
「俺はそうじゃないと思っている」
「は?」
「……久世家には、君の才能が好きな人間が多いだろう」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
「自分の野望を果たすために、手段を選ばない人間も多い」
「それって……」
——叔父さん?
それとも、まさか。
——『久世家は、強い者が正義じゃ』
いや、
そんなはずない。
「単純に、両親が僕のこと捨てただけじゃないの?」
「捨てないさ」
「……何でそう言い切れるんだよ」
足取りが重くなる。
靴が雨水を含んでいるせいだ。
「だって俺は、
生まれたばかりの君を抱く、君の母親を見ている」
「……っ……」
「優しい目をしていたよ」
——僕も。
抱っこ、してもらったことあるんだ。
下唇を噛んだ。
「……子どもの時の記憶なんてあてにならないじゃん」
「そうかもしれないね」
いつの間にか、道は岩肌を削っただけの細いものになっていた。
右手は山肌。
左手には、木々の隙間から白く濁った川が見える。
雨で増水した水が、岩にぶつかって轟音を立てていた。
ザアァァ……。
山の木々が騒めく。
空気が冷えたのがわかった。
「……来る」
僕は目を細めた。
ガサガサガサッ!!
山の斜面を黒い塊が駆け下りてくる。
木々の隙間から、巨大な前脚が飛び出した。
「……熊?」
黒い霧を纏った獣の姿。
普通の熊より二回りは大きい。
立ち上がれば、僕の倍近くある。
全身から黒い霊力が揺らめいていた。
「ォ……ォオ……!」
ギョロリと光った二つの瞳が、僕を捉えた。
「グォォ!!」
ドォォォン!!
霊害が振り上げた前脚で木を薙ぎ倒す。
鳥が一斉に木々から飛び立った。
僕は傘を閉じた。
「これが特級?」
思ってたより、大したことないな。
僕は掌へ霊力を集めた。
「グォォォォッ!!」
霊害が地面を蹴った。
巨体が、真っ直ぐ僕へ飛び込んでくる。
振り上げられた爪。
——遅い。
僕が片手を前へ向けた、その瞬間、
ブワァァァ!!
視界の端で、蒼嶺が共霊した。
ズバァンッ!!
横から放たれた青白い霊力が、
僕の放った一撃を弾いた。
「……っ」
——蒼嶺……!
軌道が逸れる。
ドォン!!
本来なら胴体を貫くはずだった一撃が、
霊害の肩口を掠めた。
「ォ……オオ……!」
直撃を免れた巨体が、勢いのまま横へ弾かれた。
霊害が濡れた岩肌に爪を立てる。
ガリガリガリッ!!
だけど、踏ん張りは利かなかった。
霊害の身体が、崖側へ大きく傾く。
「……あ」
岩が崩れた。
次の瞬間——
黒い巨体が、
木々を薙ぎ倒しながら斜面を転がり落ちていった。
ドンッ!
バキバキバキッ!!
下から、水が大きく跳ねる音が響いた。
「……何してんの?」
僕はゆっくり蒼嶺を振り返った。
「俺が……先に……祓う」
「は?」
声が、妙に低い。
蒼嶺の気配が濁っている。
変だ。
この間見た、訓練場での共霊と明らかに違う。
また、蒼嶺の指先が震えているのが見えた。
「俺が……後継者に……」
震える手で、蒼嶺が額を押さえた。
「……なる」
その口元が、ゆっくり歪んだ。
「わかったってば」
僕は崖下へ目を向ける。
茶色く濁った川の中。
黒い巨体が、
ゆっくりと起き上がっていた。
「まだ終わってないよ——」
僕が顔を上げた瞬間、
蒼嶺が目の前にいた。
「……?」
その片手が、僕の腹部に添えられる。
バチィィィッ!!
掌から霊力が弾ける。
「邪魔だ……紫苑……」
「……は?」
身体が宙に浮く。
傘が手から離れる。
下から、
川の濁流と霊害の雄叫びが僕を迎えていた。
「俺が……久世家の当主だ……」
こいつ、蒼嶺じゃないな。
気配が違う。
あの守護霊の霊力が、
蒼嶺の身体の中から溢れている。
——なるほど。
身体が崖の外へ投げ出された。
川音が、一気に近づく。
ほら見ろ、蒼嶺。
身の丈に合わないことをするから。
——久世の亡霊に、身体を奪われた。
ザパァンッ!!
僕は川の中へ沈んだ。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月21日21時
第二百八十二話 Episode:紫苑【名前】




