第二百七十八話 Episode:紫苑【紫陽花】
本をたくさん読んでいる人とそうでない人では、
見えている世界が違うらしい。
知識の差、ということだろう。
僕は本を読む。
必要なものは、大体。
それに、一度読めばすぐ頭に入る。
だから凡才たちよりも色々なことが見えている。
それでも、
凡才の方がよく見えるものもあるらしい。
——『……紫苑様とは、違う感想をお持ちだったということです』
ほんの一瞬、
あの夜の爺やの言葉を思い出した。
別にいい。
僕は凡才と同じものが見たいとは思わないから。
*
「紫苑様、おはようございます」
リムジンの前、狛はいつも通り僕に挨拶をした。
——こいつはいつから、
こうやって僕の懐に入ろうとしていたんだろう。
「……おはよ」
なら、僕も変わらない。
そっちがその気なのはわかったから。
乗ったフリをしてやれば良いだけだ。
車が、学校へ向かって走り出した。
「……」
車内にエアコンの音だけが響く。
蒼嶺とのこと。
聞いたって、どうせ本当のことは言わないだろう。
だったら聞くだけ無駄だ。
僕はいつも通り、窓の外を眺めていた。
それなのに——
「紫苑様」
「何?」
「今日は、体調が悪いですか?」
「……何で?」
「いつもより、元気がないように見えたので」
こいつは、一体何を感じ取ったのだろう。
「別に普通だけど」
「……そうですか」
再び、車内に沈黙が流れた。
「……雨」
沈黙を破ったのは狛だった。
「また降りそうですね」
車窓から空を見上げる。
空は分厚い雲に覆われていた。
「せっかく晴れたのに」
狛は独り言みたいに呟いた。
「もうすぐ梅雨入りだからね」
春が終わり、
湿っぽい雨の季節が来る。
「気圧の変化で……
頭痛とか、体調が悪くなる方もいます」
「そうなんだ」
そんなの知ってるけど。
「紫苑様も、ご無理なさらず」
「無理なんてしないよ」
「いつも気を張っているようですから」
「……は?」
気を張ってる?
僕が?
……何が見えてるんだよ。
狛はそれっきり、学校に着くまで何も言わなかった。
*
六月六日。
庭には紫陽花が咲き始めていた。
集まって咲く様子から、
紫陽花には“家族団らん”という花言葉もあるらしい。
全く似つかわしくない。
なのにこの家は、紫陽花をやけに気に入っていた。
「紫苑」
帰宅してすぐ、
僕はばあちゃんに呼び出された。
だだっ広い畳の部屋で向き合って座る。
「今日で十三歳じゃな」
「うん」
歳とか別にどうでもいいけどね。
「お前に、新しい術を教える」
ばあちゃんが僕をまっすぐに見た。
僕と同じ、紫色の瞳に捉えられる。
「禁式じゃ」
——ああ。
使ったら破門されるとかいうやつ?
「それ、使うところないじゃん」
「……そうじゃな」
ばあちゃんの声が低くなる。
「久世家の後継者に、代々伝えられておる」
「でも使ったら破門なんでしょ?」
「わしはお主を破門する気はない」
ばあちゃんはキッパリと言い切った。
……なるほど。
使ったところで、申告制じゃないしね。
「それに、
いくらお主とて、この術を使いこなせるかはわからぬ」
「どういうこと?」
「この術は、強い霊力を持つ者にしか使えぬ」
僕は眉をひそめた。
「どんな術なの?」
「——契絶。
人間と守護霊の契約を強制的に絶ち、その契約を一時的に術者へ移す」
「……奪うってこと?」
「そうじゃ。
一時契約の間は、守護霊の力は術者のものとなる」
「それが終わったら?」
「守護霊は——消滅する」
「……」
随分と、暴力的な力だ。
「ただし、術を使う者の霊力が、対象の人間と守護霊の霊力の合計を上回っていることが前提じゃ」
「へぇ……」
だから使える者が限られるのか。
「代償は?」
「……術者も力の一部を失うそうじゃ」
「“そう”?」
ばあちゃんが小さく息を吐いた。
「はっきりとはわからぬ。
わしの知る限り、ここ数十年、禁式を使った者はおらぬからな」
「ふぅん」
相手の守護霊を消す代わりに、自分も力を失うのか。
「そんなの使わなくたって、僕に勝てるやついないじゃん」
「一対一の真っ向勝負ならな」
「……」
「勝負は、力の差だけでは決まらない」
あの夜の、右肩の痛みを思い出した。
騙す。
油断させる。
不意をつく。
それに、
勝つために凡才は力を合わせる。
今だって——蒼嶺と狛は何か企んでる。
「で、どうしたら良いの?」
「今からそのやり方を教える」
ばあちゃんが立ち上がった。
「よいか。使い時を間違うなよ」
久々に、外はすっきりと晴れていた。
けれど、
締め切ったこの部屋には光が入らない。
「これは、お主を後継者にするための力じゃ」
天気予報では、
来週にも梅雨入りするらしい。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月18日21時
第二百七十九話 Episode:紫苑【正義】




