第二話 ここにいるのに、触れられない【後編】
放課後。昇降口に生徒たちの笑い声が響く。
僕たちだけが、静かだった。
穏やかな静寂ではない。落ち着かない、静けさ。
「帰ろう、颯」
「……んー」
気の抜けた返事。颯はE組に行った後から、どこか遠くにいるみたいだった。
僕は、その姿をまっすぐ見ていられなかった。
昇降口で靴を履き替えていると、
「白瀬くん、さようなら」
斎賀先生に、声をかけられた。
この学校の理科教師。授業の担当はしてもらっているが、特別親しい訳ではない。会話した回数は、指で数えるくらいだ。
「帰り、気をつけてね。……今日は、特に風が強いから」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
――この時は、そんなふうに片付けていた。
差し込む夕日が、斎賀先生のメガネに反射する。光に遮られて、目元は見えなかった。
「はい。さようなら……」
僕は軽く会釈した。
重い足取りで校門を抜ける。
僕たちはこの先、どうなるのだろう。
その時――
ギィィ…ッ!
僕の視界に滑り込んできた、あの赤色。
「あ!」
思わず声を上げ、僕はそのまま駆け出した。
「おいっ!何だよ急に!」
「あの赤い車だよ……!」
丁寧に説明している余裕なんてなかった。細い路地に入り込む赤い車の跡を、僕は走って追いかけた。
その路地は異様なほど静かだった。まだ夕方のはずなのに、夜の底に落ちたみたいに暗い。
街灯が一本、チカチカと不気味に点滅し、その下に赤い車が停車した。
「おい、柊!運転席ぶっ叩くぞ!」
「待って……その前にナンバー……」
ブレザーのポケットからスマホを取り出して構える。
が――
「よ、読めない……!?影みたいなのが……!?」
ナンバープレートの数字が、黒い影に包まれて揺れていた。
「あの車、変だよ、颯……!」
「轢き逃げなんてすんの、変なやつに決まってんだろ!おい!てめぇ!」
颯が運転席の方へ一歩踏み出したその瞬間――
バン!!
運転席が勢いよく開き、真っ黒な影の塊が溢れ出した。
人の形はしていない。輪郭は曖昧で、液体のように揺れている。
そして、その表面から――
何十もの“手”が、ずるりと伸びてきた。
歪んだ人の顔が、いくつも張り付いている。
「うおっ!?きもっ!!」
颯は反射的に空中を蹴り、後方に飛んで避けた。
“手の群れ”が逃げる颯を追いかける。
「……っぶねぇな!何だ今の!?」
「わ、分からない。でも、人じゃないのは確か……!」
バン!
バン!!
次の瞬間、車のドアが全て同時に開いた。
助手席からも後部座席からも、同じ黒い影が雪崩のように溢れ出す。
「颯、危ない!!」
捕まる。
颯も、そう思っただろう――だが。
「うおっ!?あれ?おい!柊!こいつら俺に触れねーみてぇだぞ!?」
影の手は、颯の身体をすり抜けていく。
「でもよ!俺も触れねぇわ!」
そして、颯の拳も影をすり抜け空を叩いた。
手の群れが、一瞬、戸惑ったように動きを止めた。
だが、それも束の間。
伸びた手が一斉に向きを変え、僕へと迫ってきた。
「……ひっ!!」
「おい!チビ避けろ!!」
避けられるわけがない。残念ながら、僕には颯のような運動神経がないのだ。
僕はあっさり、影の手に足元を掴まれ、凄まじい力で影の塊の中へと引きずられた。
「うわあああああ!」
「何してんだ、バカ!」
颯が、僕に手を伸ばす。
僕も、必死に掴もうと手を伸ばした。
届く――!
……はずなのに、その手は掴めず、すり抜けた。
「くっそ!」
「颯!逃げろーー!!」
叫びと共に、僕は影の塊の中へ引きずり込まれた。
――そこは、真っ暗な闇。光も、音もない。
重たい石で胸を押し潰されているかのような凄まじい圧迫感。
「お前だけ助かるな……」
「もっと生きたかったのに……」
「痛い……痛いよ……」
無数の声が、頭の中に響いてくる。
同時に頭の中に映像が流れてきた。
クラクションの音、迫るヘッドライト、砕けたガラス、誰かの叫び声。
これは――事故死者たちの記憶だ。
この影の塊は、あの日の僕たちと同じように、交通事故に遭って……そして、亡くなった人たちの霊なんだ。
「……ううっ……」
息が苦しい。このまま飲まれる。
僕も死ぬんだ。
それもしょうがないか。
どうせ、また誰かを傷つける。
だったら――ここで終わってもいい。
死を覚悟した。その時。
「……兄貴ぃ!!!」
颯の叫びが耳に届いた。
「は、やて…?」
そうだ。颯。
僕が死んだら、颯はどうなる?
僕しか知らない存在。僕にしか見えない。
――僕が守らなくて、誰が颯を守るんだ。
僕は、君を守れるようになるって、決めたんだった。
「颯ーーーッ!!」
叫んだ瞬間、白銀の閃光が視界を裂いた。
その光が、一直線に僕の胸に突き刺さる。
身体が熱い。血液が燃えるように全身を巡る。
心臓が――二つ、脈動した。
その鼓動は、確かに“僕のもの”だけではなかった。
※次回更新:1月5日7時
第三話 守るって、決めてた【前編】




