第二話 ここにいるのに、触れられない【前編】
僕の弟は、集中治療室で眠ったままなのに、
今、僕の横で欠伸をしている。
――触れられないまま。
チーン。
「行ってきます、母さん」
いつものように制服の襟を正し、父さんの用意してくれたトーストを口に運ぶ。
同じ道、同じ景色。
――颯が僕の横で浮いていること以外は。
「本体の方に戻ろうとしたけどよー、アレ無理だったなー。全然触れねぇし」
「どうしたら……颯を元に戻せるんだろう」
「さあな。そのうち何とかなるんじゃね?」
「……」
「んだよ、その目は!」
「もうちょっと真面目に考えてよ!
このまま戻らなかったらどうするの!?」
「あのなぁ!元はと言えばお前が轢かれそうになっから!!」
「……それは……」
反論できない。
また、罪悪感が伸し掛かる。
颯の舌打ちが聞こえた。
「……おい、柊。アレ」
颯が道路の端を指さす。
【四月二十日 火曜日 轢き逃げ 目撃情報求む】
あの事故現場に立てられた看板。
赤い車が、頭をよぎる。
「……見つかってないんだ」
「逃げんなよ、クズ野郎」
「……早く捕まって欲しいね」
颯が守ってくれなかったら――
今、ここにいるのは僕じゃなかった。
それ以上、言葉はなかった。
――瑞峰学園、二年A組。
離れられない以上、颯は僕と一緒に過ごすしかない。
「おはよう。白瀬君、大変だったね」
「颯君、早く目が覚めると良いね」
「……うん」
クラスメイトたちは気まずそうな顔をして、僕から去っていく。
「おいお前、感じ悪すぎだろ……。
だから友達できねぇんだぞ……」
「欲しいと思ってないから」
「お前、昔はそんな暗いやつじゃなかっただろ」
淡々と授業を受け、休み時間は一人で過ごす。
極力、誰とも関わらない。
――みんな、僕と関われば不幸になる。
母さんや、颯のように……。
だから、ずっと一人で良い。
世界は何も変わらず回っている。
授業も、休み時間も、みんなの笑い声も。
変わったのは、僕と颯だけだった。
「……なあ、俺の教室、ちょっとだけ見に行っても良いか?」
昼休み。
珍しく弱い声で、颯が言う。
「……うん。見に行こうか」
普段は絶対に足を踏み入れない颯のクラスへ向かう。
そっと入り口からE組の中を覗いた。
そこには、颯がいつも一緒に笑っていたメンバーの姿があった。
「昼食ったらサッカーな?バスケでもいいけど」
「颯いねーと盛り上がらんべ〜」
「それな。エペも勝てんし〜」
「マジで早く戻って来て欲しい」
僕の横で、颯が小さく呟く。
「……俺が一番、戻りてぇよ」
楽しげに、こちらへ歩いてくる颯の仲間たち。
「購買行くー?」
「ジャン負けジュース奢りな!」
颯が一歩前に出た。
「……おい!お前ら…っ」
言葉が、宙に舞う。
友人たちは颯の身体を、すっとすり抜けて廊下へ出ていった。
颯には居場所がある。
なのに今、颯の隣にいるのは――僕だけだった。
「……戻るか」
「……うん」
沈黙する僕たちとは対照的に、隣のF組からは爆音の音楽と笑い声が響く。
「うぇーーい!!」
僕はF組の方を見ないように、視線を逸らしてE組から立ち去った。
*
――F組から、颯を見る男が一人。
他には、誰も颯に気づいていないのに。
「あれ〜?」
金髪に黒いヘアバンド。
アクセサリーをじゃらつかせた、いかにも軽そうな男。
けれど、その視線は――
廊下に浮かぶ颯の姿を、真っ直ぐに捉えていた。
「どしたん〜?」
「ん〜、何でもなーい!気のせい〜!」
「もう一本動画撮ろうぜ〜!」
「うぇーーい!」
彼は笑いながら、再び輪の中に戻っていく。
その視線だけが、颯を捉えていた。
*




