第二百七十五話 Episode:紫苑【花曇り】
あれから数日。
東雲狛がどんな男か、ある程度わかってきた。
「東雲くん、宿題見せてくんない!?」
「宿題は自分でやらないと意味がないぞ」
真面目で、誠実。
「今回だけだぞ」
だけど、
融通が利かないわけじゃない。
それに優しい。
「荷物多いな。半分持つよ」
「高いところ、俺がやろうか?」
周りをよく見ていて、気遣いができる。
……好かれないわけがなかった。
それでも。
あの日以来、
狛は杉浦たちに目をつけられていた。
杉浦は猿山のボスみたいなやつだった。
取り巻き連中に、僕と狛に関わらないよう圧をかけていたらしい。
だから狛も、何人かの生徒から無視されたりしてた。
……僕のこと庇うとかバカなことしなければ、
狛はもっとマシな中学校生活を送れてただろうに。
ま、どうでもいいけどさ。
*
入学して約一ヶ月半。
一緒に登校することにも、慣れてきてしまっていた頃。
「お前、もういいよ」
リムジンの後部座席で、僕は窓の外を見ながら言った。
「え?」
狛が聞き返す。
「学校!もう一ヶ月以上経つけど、危ないやつなんて別にいなさそうだし」
僕は肩をすくめた。
「ずっと僕の近くにいなくてもいいって言ってんの」
「いや、でも——」
「もうちょっと自分の得になるように動けば?」
狛の方を見る。
「“得”?」
狛は眉間に深い皺を作っていた。
……そんな顔したって、
どうせ意味、わかってんだろ。
「お前の好きに動けばいいよ」
——僕のことに構わずさ。
また車窓を向く。
だからあの時、
狛がどんな表情をしていたのかはわからない。
ただ、
「わかりました」
すでに声変わりを終えた、低い声だけが聞こえた。
「俺の好きにします」
「……そ」
学校が近づき、車が細い用水路の横を通り過ぎる。
薄曇りの空が水面にぼんやり映っていた。
ふいに、水面に何かが浮いているのが見えた。
……教科書?
開いたページが水を吸って、ゆらゆらと揺れる。
「……」
僕は目を細めた。
端に書かれた名前までは見えない。
だけど、持ち主が自分で落としたようには見えない。
落としたなら、普通は気づく。
つまり——
誰かが、捨てた。
「……くだらな」
僕は視線を外した。
車はそのまま、学校へ向かっていった。
*
「東雲くんどうしたの〜?」
一限が始まる前、
狛の机は杉浦たちに囲まれていた。
狛の席は僕の左斜め前。
見る気がなくても目に入る。
それに——
「次、国語だよ?早く準備しないと」
「あれ?もしかして教科書忘れちゃった?」
「……そうだな」
狛は机の中を確認して、静かに言った。
「なくしてしまったみたいだ」
「えー!?東雲くんでも忘れ物すんだ〜!」
杉浦たちは、
周りに聞かせようとわざとデカい声で話す。
だから、
聞く気がなくても聞こえてしまう。
「昨日、学校に置いておいたはずなんだけどな」
「どっか落としたんじゃね?」
「……そうかもしれない」
……教科書……?
ああ。
——用水路の、アレか。
「マジでくだらな」
杉浦も、
まともに相手してる狛も。
どうでもいい。
勝手にやってろ。
そう思った。
……頭では。
——バサッ。
気づけば、
僕は狛の机の前に立っていた。
「あげる」
狛の机に落としたのは、
自分の教科書だった。
「え?」
狛が顔を上げて僕を見る。
「もういらないし」
「いらないって……」
「全部暗記してるから」
それだけ言って、僕は席へ戻った。
……別に?
優しくしたわけじゃない。
僕はお前みたいな偽善者じゃないし。
ただ、この間の借りを返しただけだ。
——それなのに不思議と、
心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
杉浦たちの話し声が、聞こえないくらいに。
*
「じゃあ久世くん。ここから読んで」
一限目、国語。
「はい」
立ち上がる。
当然、僕の机に教科書はない。
さっき狛にやったから。
杉浦たちがニヤニヤと笑っているのがわかった。
まあ、別に?
「花曇りの向こう——」
春。
新しい場所で出会った二人が、少しずつ言葉を交わしていく話。
最初は互いのことなんて、ほとんど知らない。
……まあ、そんなつまんない話。
僕は何も見ずに、そのまま文章を読み上げた。
「……久世くん」
先生が僕の机へ目をやる。
「教科書は?」
「ないけど」
「……今、見ないで読んでたの?」
「覚えてるから」
教室が少しざわついた。
左斜め前。
僕の教科書を開いた狛が、こっちを見ていた。
「……何?」
「いえ」
狛はまた教科書へ目を戻した。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:8月16日12時
第二百七十六話 Episode:紫苑【友達】




