第百九十四話 Episode:響【髪を切る】
詠慈様のご結婚が決まった、あの年から二年。
ぐっすりと眠れない夜が続いた。
目の下の隈は、次第に色を濃くしていた。
全部を振り払うように、私は必死に訓練した。
高校に入る頃には、
上級霊害を一人で片付けられるくらい強くなった。
御影家での惨事の後、
三流派合同の特訓は行われなかった。
それでも――
今なら紫苑くんや篝くんとも、
少しはやり合えるような気がしていた。
強くならなければ、この家を守れない。
契約や共霊がなくたって。
久世や御影に屈しない、“正しい”祓い師になる。
それが、選ばれるための条件。
そう信じて、
暗闇の中を走ってきた。
*
暖かい春の日。
霧島家に、新しい命が生まれた。
「詠慈様のご嫡男、霧島和音様です」
――男の子。
揺籠の中、すやすやと寝息を立てる赤ん坊。
……ちっとも可愛く見えなかった。
霊力は確かに強い。
だけど、
紫苑くんや篝くんのように圧倒的ではなかった。
私と、変わらない。
「抱っこしてくれるかな?」
反面の目孔の奥、
詠慈様の目元が柔らかく垂れる。
「私はやめておきます。
……落としてしまったら、怖いので」
抱いたら、
壊してしまいそうだった。
私の隣で、蓮太郎さんが両手を差し出す。
「では、僕が」
詠慈様は眠る和音を抱き上げると、
そっと蓮太郎さんの腕に渡した。
蓮太郎さんが和音の顔を覗き込む。
「……詠慈様似ですか?」
「みんな、そう言うね」
詠慈様が小さく呟く。
「男の子だからかな」
喉元がぎゅっと締め付けられた。
せめて和音が女なら、
まだ楽に息が吸えたのかもしれない。
久世には蒼嶺くんがいて、
御影には篝くんがいる。
……なのに。
霧島だけ、まだ決まっていなかった。
どうか、早く。
私は、詠慈様の目を見据えた。
――私を、選んで。
一度で良い。
後継者だと言ってほしかった。
「響」
詠慈様の口から出た言葉は、残酷だった。
「今までよく頑張ってきたね。
これからは肩の力を抜いて」
祈りは、いつも届かない。
「ゆっくり、身体を休めなさい」
*
三年後、
和音は霧島家の正式な後継者に決まった。
まだ三歳だと言うのに。
――結局は、男か。
継承の儀には、参列しなかった。
だから、私が和音に会ったのはあの時の一度だけ。
……顔を見たくなかったからだ。
儀式の日、奏から久しぶりに着信があった。
だけど私は出なかった。
……電話に出ていたら、何か変わっていたのだろうか。
「響。ごめんね」
母はひどく落ち込み、
しばらく部屋から出てこなかった。
……“大丈夫だ”って、言ってよ。
あなたが謝ったら、
私も認めるしかないじゃないか。
――『響は、特別よ』
「……特別なんかじゃない」
握り拳の中、爪が皮膚に食い込んだ。
努力したって報われない。
霧島の女は、
結局“女”なんだ。
ただ、
この家のために生きてきたのに。
――結局、
この家に裏切られた。
*
継承の儀から数日後。
夜の浜辺に、私はいた。
「はぁ……はぁ……」
膝に両手をつき、腰を折る。
特訓はやめられなかった。
……もう癖になってしまっていた。
だけど、
分家の訓練場には行かなかった。
口元の汗を拳で拭う。
ザァァ……。
夜風が砂を巻き上げた――その時。
重たい霊気が、風と共に流れた。
それは――
私のよく知る気配を、歪んだ形で孕んでいた。
「……お主は、何のために強くなるのじゃ?」
「っ!?」
顔を上げる。
目の前に、花魁姿の女性がいた。
……共霊している。
霊力は、霧島家のものなのに。
――霧島?
まさか。
「……霧島琴子……!?」
「理解が早くて感心じゃな」
先代当主の姉であり、
規律を破り、破門された。
霧島史上最強にして最悪の祓い師。
だとすれば、七十を超えている。
ハリのある肌。
すらりと伸びた背筋。
なぜ、こんなにも若々しい……!?
霧島琴子は、艶やかな唇に指を添えた。
「お主のような才能を捨てるなど、
さすがは霧島と言ったところじゃな」
思わず、拳を構えていた。
「破門されたあなたが、私に何の用ですか?」
「安心せえ。わしはお主の味方じゃ」
「……味方?」
眉をひそめる。
「わしと一緒に来い。
腐り切った祓い師の世界に、鉄槌を下そう」
暗い海の中、荒波が立った。
「お前を捨てた霧島家を、作り替えるのじゃ」
心臓が、ドクッと跳ねた。
「強さより、
秩序や伝統を重んじるしょうもない家じゃろう?
そんなものは、まやかしじゃ」
「……まやかし……」
「この世は、強いものが正義。
お主もよくわかっておるじゃろう」
――『久世は強い。
霧島の意見は、通らないことも多いんだ』
あの日、詠慈様はそう言って私に頭を下げた。
――『強くならなくてはいけない』
……なのに、
私には、詠慈様が強さよりも伝統を選んだように思えた。
正しくあるだけじゃ、
久世にも御影にも勝てなかった。
構えた拳を、下げる。
「それでも、霧島が大事か?」
霧島は、弱い。
弱いものは、正しくはいられない。
――『響』
正しく響く、あの声と共に、
奏の笑顔が脳裏を過った。
守りたい。
……それって、本音?
本当は、
否定したかったんじゃないの?
そんなの綺麗事だ、って。
あんたは何も背負ってないから、
そんなことが言えるんだ、って。
「いずれにせよ、じきに霧島は久世に消される。
ならばわしらが潰し、生まれ変わらせれば良い」
正しくいても、選ばれない。
正しさは、強さなんかじゃない。
だったら。
――私が壊す。
「正攻法で生き延びられるほど、甘くはない。
弱者は、何も守れない。それが現実じゃ」
霧島琴子が、私に手を差し出す。
細長い指の先に、真紅のネイルが見えた。
「強くなりたいのじゃろう?」
美しい指先に招かれるように、
私は霧島琴子の手を取った。
「それで良い。
わしが選んだお主は、特別じゃ」
“特別”。
母が何度も口にした言葉だった。
もう片方の手で、結った髪を解く。
「……はい」
この夜、
私は久しぶりに、悪夢を見なかった。
夜が明けて。
私は、長く伸ばしていた髪を切った。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:6月7日12時
第百九十五話 Episode:響【帰る場所】




