第百八十九話 霊奏・花響
***
金魚すくいの屋台前。
桃華は一人、取り残されていた。
「急にどこ行ったのよ、あの子」
「桃華様」
ベビーカステラの袋を手に、暮羽が戻る。
甘い匂いが二人の間を漂った。
「奏様は?」
「さあ?焦って走って行ったわ」
次の瞬間、
フェンスの向こう側から――
ベェンッ!!
響いた音に、何人かが足を止めた。
「何か演奏やってる?」
「え?もう花火始まるよ」
人の波は、すぐにまた動き出した。
「演奏なんかじゃないわね」
「……霊害でしょうか?」
「ただの霊害なら良いけど。
暮羽。行ってあげなさい」
桃華がフェンスの向こうを顎で指す。
「ですが、それでは桃華様がお一人に……」
桃華は、暮羽の手からベビーカステラの袋を奪った。
「桃華を誰だと思ってるの?」
「燦宮桃華・アメリ・ド・ルモワーニュ様です」
暮羽が胸に片手を当て、頭を下げる。
桃華は満足げに笑った。
「よろしい。行きなさい」
「はっ」
暮羽が走り去るのを見送ると、
桃華は巾着からスマホを取り出した。
「優しい桃華が庶民に知らせてあげるわ。感謝なさい」
電話帳の画面をスクロールする。
「……あら?」
その指が、止まった。
【久世(嫌い)】
【御影(美形)】
「……久世紫苑と御影篝しかないじゃない」
――庶民の番号なんて、知るわけなかったわ。
カツン……。
背後で、誰かの足音が止まった気がした。
「やっと一人になったのう」
悪寒が走る。
霊力を練る間もなく、背後から口を塞がれた。
「……あっ……」
きつい薔薇の香りが鼻を刺した瞬間、
瞼が、一気に重くなる。
「たんとお眠り」
ベビーカステラの袋が桃華の手から滑り落ち、
中身が地面に転がった。
***
コンテナヤード。
赤い光の眩しさに、奏は思わず目を瞑った。
……響を捉えたはず。
声が、確かに聞こえた。
うっすら目を開けると――
「……っ!」
響は立っていた。
身体を、奪われたまま。
……効かなかった?
赤い霊力で壁を作ったというのか。
――いや。
「……ああ……あ……」
ゆらりと響の纏う霊力が、
わずかに乱れるのが見えた。
……削れてる。
固い壁を作るなら――
次の一音で、壊してみせる。
もっと、心臓まで響く音で。
奏はコンテナヤードの時計台へ目をやった。
七時二十七分。
――あと三分。
三味線を握り締める。
「……排……除……!」
シュッ!!
コードが迫る。
「……っ!」
軌道は見えている。
だけど避けるので精一杯だ。
時間がない。
奏でられる隙を作らないと。
そのことばかりを考えていた。
……気づけば、背後から海の音が近づいていた。
ガクッ!
「え!?」
右足が下に抜ける。
そのまま、重心が後ろへ傾く。
――落ちる!
奏の背中に跳ねた海水が触れた。
その時――
――『……奏!』
奏の手首にコードが巻き付き、
空中へ引っ張り上げられた。
「――っ!」
ドサッ!
コンクリートに身体が打ち付けられる。
手首から、ゆっくりとコードが離れた。
触れた手首が熱くない。
さっきのコード、赤い霊力を纏っていなかった。
「……何で……?」
奏は起き上がりながら、響を見た。
「……あ……ああ……かな……で……」
響が両手で頭を抱えていた。
――もがいてる。
「……あああ……」
ブワッ!!
赤い霊力がまた噴き出した。
まるで、響の心を握り潰すみたいに。
「……あ……あ!!」
響が奏に向かって駆け出した。
速い。
コードが唸る。
避けきれない。
ベギィッ!!
「いっ!!」
コードが奏の背中を叩いた。
焼けるような痛みが走る。
ストラップが千切れ、
三味線が奏の身体から離れた。
三味線がコンクリートを滑る。
――まずい!
ヒュッ!
また、コードが迫る。
避ける?
いや、私は逃げない。
奏は三味線に向かって飛び出した。
バシィッ!!
コードが背中を打つ。
衝撃で、奏の手から撥が離れた。
「……うぐ……っ!」
噛み締めた唇に、血が滲む。
このくらい、どうってことない。
――あなたの痛みに比べたら。
三味線に手が届く。
奏は、簪を抜いた。
振り返る。
「響!!」
撥の代わりに簪を構えた。
――もう二度と、あなたを離さない。
七時二十九分。
花火まで、あと数秒。
ヒュルルル……
海の向こうで、燃焼音が鳴る。
「霊奏――」
今、この瞬間。
私は、あなたを救う。
「花響!!」
ドンッッ!!
花火の轟音に、自分の音を重ねた。
「響け!!」
――『約束だよ』
響の瞳に、
わずかに人の光が戻った。
「……奏」
午後七時三十分。
夏の夜空に、花が咲いた。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:6月4日21時
第百九十話 Episode:響【約束】
明日から響過去編入ります。




