第百八十八話 掴む番
奏は、立ち入り禁止のフェンスを飛び越えた。
はらりと乱れた浴衣の裾から、短パンが覗く。
午後七時十五分。
花火が打ち上がるまで、残り十五分。
陽は、完全に沈んでいた。
息が上がる。浴衣の裾が足に絡む。
「……響……!」
フェンスの向こう側は、コンテナヤードだった。
祭りの今日、この場所は動きを完全に止めている。
奏は霊力の気配がする方へ向かって、
色とりどりのコンテナの間を縫って走った。
暗闇の中、巨大なクレーンが獣みたいに奏を見下ろす。
コンテナの影で、赤い霊力が揺らめいた。
走りながら、三味線ケースから中身を取り出す。
ストラップを首にかけ、ケースを乱暴に投げ捨てた。
コンテナの角を曲がると――
「響!!」
響がいた。
暗く濁った瞳。
ごうごうと噴き出す赤い霊力。
奏を見ても、響の目は何も映していなかった。
まるで目の前の相手が誰なのかさえ、分かっていないように。
「……あ……排……排除……」
響の口から、ノイズ混じりの声が漏れた。
あの日――研究所で見た暮羽と同じ。
音を消すための、円盤の装置も着けていない。
ただ力を撒き散らしているだけだ。
……こんなの、響じゃない。
奏は目を細めた。
「……強制共霊……!」
響に、なんてことを……!
「許せない……!」
怒りで身体が震えた。
「響!聞こえますか!?奏です!!」
返事はない。
だけど――
響の指先が、わずかに動いた。
――『……助けて』
聞こえる。響の声。
「助けます!!」
今度こそ。絶対に。
奏は撥を構えた。
「霊奏!!」
ベベンッ!!
響に向かって、青白い音の刃が飛ぶ。
響の手元で、黒いコードが揺れた。
バシッ!!
一薙。
音の刃がコードに弾かれる。
弾かれた音は、
コンテナに当たって砕けた。
――装置はないのに、音が通らない。
明らかに、前より強い。
シュッ!
コードが奏に向かって伸びる。
奏は後方に跳んで避けると、
コンテナに沿って走った。
シュッ!
シュッ!!
赤い霊力を纏ったコードが追いかけてくる。
コードが奏を狙うたび、
……響の指先が、わずかに震えていた。
――曲がり角。
奏がコンテナの影に消える。
響は奏の後を追い、角を曲がった。
しかし、
「……あ……?」
奏の姿が見当たらない。
響が足を止めた、その時。
ベベベンッ!!
コンテナの上から、音の刃が落ちた。
響の身体から赤い霊力が噴き出す。
霊力の熱に触れ、音の刃は溶けた。
――響まで、届かない。
響がコンテナを見上げた。
奏と目が合った瞬間、響の口元が不自然に吊り上がる。
「……くっ」
奏はコンテナの上を駆け出した。
――考えろ。
誰かの力を待つんじゃない。
今度は、私から響を掴む番だ。
奏は走りながら、左右を見渡した。
コンテナの並びは規則的。
同じ金属製。そして、等間隔。
隠れてお札を仕込む余裕はない。
ましてや、ここは閉じた屋内でもない。
なら――この場所全部を使うしかない。
「使ってみせる」
神も仏も、頼らない。
バシィッ!!
響のコードが足元まで迫ってきた。
間一髪避けるが、バランスが崩れる。
「……あっ」
また、コードがしなる。
バチィィッ!!
コードが左足を打った。
「ああっ!!」
熱い。
激痛に顔を歪める。
奏は積み上がったコンテナの縁から、
二段下の通路へ転げ落ちた。
三味線を守るように抱えて。
ドサッ。
「……いった……」
痛い。
足がドクドクと脈を打つ。
それでも、
立ち止まっている暇はない。
――起き上がれ。
痛む足を無理やり動かして走った。
逃げるためじゃない――探すためにだ。
ベン……ベン……。
軽く弦を鳴らしながら走る。
音の高さを少しずつ変え、共鳴点を探った。
耳の神経を研ぎ澄ませる。
どの高さの音なら――
コンテナも一緒に奏でてくれる?
ベェン……。
わずかに、コンテナが共鳴した。
「……この音ですね」
シュッ!
背後でコードがしなる音がした。
もう近くまで追ってきている。
奏は振り返って足を止めた。
岸壁を背に、三味線の撥を構える。
息を深く吸って吐いた。
「あ……ああ……」
――受けて立つ。
「霊奏――」
ヒュンッ!
コードが一直線に迫ってくる。
周波数を間違えたら、終わりだ。
だけど――
「反響!!」
ベェン!!
霧島の女は、
勝負どころでミスするほど、柔ではない。
そうでしょ?
「響!!」
奏の音にコンテナ全体が一斉に震え、
音の刃が四方八方から響に向かった。
コンテナヤードに、爆音が反響する。
「……あ、あああ……!」
一瞬、
赤い霊力が勢いよく瞬いた。
「……かな……で……」
初めて、響の声が届いた。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:6月3日21時
第百八十九話 霊奏・花響




