第百八十話 箱を壊す者
午後五時五十二分。
夏の夜は、まだ来ない。
僕は、斎賀先生と向き合っていた。
「……誰に、それを?」
「颯紫さん……って人に」
斎賀先生の瞳が揺れた。
やっぱり――何かある。
「斎賀先生に会ったら、伝えてくれって言われました。
“芽衣は元気だ”、と」
「……っ」
斎賀先生の表情が崩れる。
「……そうですか」
怒りを堪えるみたいな声だった。
『ねぇ!!』
奏さんのスマホの中から、光流くんの声が飛んでくる。
まだ、通話は続いていた。
『芽衣って、木ノ下芽衣!?』
光流くんも、知ってる?
だけど僕は芽衣さんの苗字まで思い出せない。
颯の方を見ると、首を横に振っていた。
答えたのは、先生だった。
「……ええ。そうですよ」
『何でその名前が出てくんの!?』
光流くんは、捲し立てるように言った。
『柊と颯も、先生も知ってるってこと!?
どういう関係!?芽衣さん、今どこにいんの!?』
……ここまで動揺するなんて。
奏さんは眉をひそめ、スマホの中を覗いていた。
「どこにいるかは、僕にもわかりません」
『その、ソーシって人は知ってんの!?』
「光流くん」
先生の肩は震えていた。
「僕も……芽衣とはずっと会えていないんです」
“芽衣”。
その名前を呼ぶ先生の声は、
今まで聞いたことがないくらい苦しそうだった。
きっと、ただの同級生じゃない。
胸の奥が、落ち着かない。
「メガネと芽衣姉さん、それから颯紫ってやつは、
昔、母さんの教え子だったんだってよ」
『え!?』
颯の言葉に、僕は付け足した。
「芽衣姉さんは、母さんの従姉妹なんだ」
『……まじ?』
河川敷に落ちる影が、徐々に伸びる。
「で、光流。
お前どうして芽衣姉さんのこと知ってんの?」
颯は腕を組み、斎賀先生を横目で見ながら言った。
『芽衣さんは――』
その場にいる全員が、
スマホから流れる声に耳を傾ける。
『俺の師匠なんだ』
――だから。
斎賀先生は、
あの日、河川敷に現れたのか。
『斎賀先生……
俺のこと、ずっと知ってたんだね』
先生は、何も答えなかった。
車のエンジン音が近づいてくる。
「柊ー!お待たせー!」
父さんの明るい声が、空間を割いた。
***
同時刻。
紫苑は自宅マンションに着いていた。
エレベーターを待ちながら、スマホをタップする。
「……」
紫苑は相手が電話に出たことを確認すると、
そっと耳に当てた。
「……ばあちゃん⭐︎?」
電話の相手は、紫乃だった。
「やってくれたね⭐︎
狛の将来ごと握り潰す気?」
『何の話だか』
チン。
軽い音がホールに響く。
紫苑はエレベーターに乗り込み、
二十七階のボタンを押した。
「未損傷のパーツなんて持ってたんだ〜⭐︎」
『わしはそんなものは知らん』
「……へぇ⭐︎」
――じゃあ、蒼嶺か。
エレベーターが上昇する。
「現当主派でも、孫は可愛いってことね⭐︎」
『……野合じゃよ』
あの時の花束の匂いが、ふと蘇る。
「それ葵も言ってた⭐︎
で⭐︎?どうせ警察も動かせるんでしょ⭐︎?」
チン。
エレベーターの扉が開く。
『紫苑。小僧を救いたいなら、態度で示せ』
「そうだね〜⭐︎」
紫苑はエレベーターを降り、
ホテルのような廊下を進んだ。
「どうせやるなら、一番大物だよね⭐︎」
『……期待しておるぞ』
「……」
ブツッ。
電話は、紫乃から切られた。
紫苑がスマホを耳から離す。
「……っいた⭐︎」
右脚に痛みが走り、紫苑は顔を歪めた。
――僕はまだ、完全じゃない。
「……夏が終わるまでだな」
それまでに、箱が開くかどうか。
2704号室。
紫苑は扉の指紋認証に触れた。
「篝様、夏バテしてる場合じゃなくない⭐︎?」
ピピッと音が鳴り、ロックが解除される。
「箱開ける気ないなら、僕が壊しちゃお〜⭐︎」
――僕は、優しくないからね。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:5月29日19時
第百八十一話 僕も一緒に
明日は二話更新します。




