第百七十二話 生まれてよかった
斎賀先生の気配は、完全に消えていた。
暮羽さんがリムジンのドアを開き、
桃華さんが乗り込む。
暮羽さんは車の後ろに回り込み、トランクを開けた。
「朝倉様。こちら、お返ししますね」
花柄のエコバッグ。
中身がパンパンに詰められ、
銀色の何かが袋から顔を出していた。
「ああ!ありがとね!!」
光流くんのお母さんが手を伸ばした。
「俺、持つよ」
受け取ったのは、光流くんだった。
「重っ!!こんなにいっぱい何買ったん〜?」
光流くんがエコバッグに視線を落す。
その時、
中身が揺れて、ハンドミキサーの箱がちらりと見えた。
「ハンドミキサー?と、ケーキの型?」
「あー……」
お母さんが頬を掻く。
「……光流が警察沙汰とか、今までなかったからさ。
多分何かあったんだろうなーって考えてて……」
「え?」
光流くんは顔を上げて、お母さんを見た。
「そしたら昔のこといろいろ思い出しちゃって。
光流に、いっぱい我慢させてたなって」
「……」
「最近あたしも、また光知瑠と喧嘩しちゃってたし」
お母さんの言葉が早口になる。
「で、光流の好きなもんでも作ってやろうと思って!
ほら!あたし料理しないじゃん!?
だからハンドミキサーも家になくてさ!!」
「……何作ろうと思ったの?」
「チーズケーキ!」
「あ……」
光流くんの瞳が揺れた。
「好きでしょ?」
「……うん!!」
光知瑠さんが目を細める。
「ババア……じゃなくて、
ママ、作れんのかよ?」
「わからん!!」
麗子さんが、お母さんの背後から顔を出す。
「アタシが手伝うわよォ〜!」
「それなら安心〜!な、光流!」
光知瑠さんが光流くんの肩に腕を回す。
光流くんは、にやりと笑った。
「母さんの手作りとか、また雨降る〜!?」
「おい!お前らどういう意味だよ!」
朝倉家の笑い声が、堤防に響く。
「……庶民はケーキを手作りするのね」
リムジンの後部座席、
窓から桃華さんが顔を出した。
「ケーキを買うお金も惜しいのかしら?」
「気持ちの問題ですよ。桃華様」
「ふぅん?」
暮羽さんが運転席に乗り込む。
「まあ良いわ。桃華はもう行くから」
「桃華さん、来てくれてありがとう」
僕がお礼を言うと、
桃華さんにじっと見つめられた。
「……Le “pur-sang”, ce serait vous……peut-être ? 」
桃華さんは、
聞き取れないほど小さくフランス語を零した。
「え?」
「あなたの父親って――」
吹き抜ける風に、
桃華さんのツインテールが靡いた。
「父さん?」
「……いいえ、何でもないわ。暮羽、出して」
車窓が上がる。
低いエンジン音が唸り、リムジンは走り去った。
……僕の、父さんの話?
「……あ……」
――『お前そっくりだったぞ。マジで』
――『赤ちゃんのあんたが、可愛くて可愛くて仕方なかった』
――『何で昴はこんなに可愛い子どもたちを……』
心臓が、嫌な音を立てた。
僕の本当の父親は――
僕のことを、
“可愛い”とは思えなかったのだろうか。
……もう、
関係ない人の話だ。
僕の父親は、白瀬透なんだから。
「……ッ」
ヘソの上が、ちくりと傷んだ。
颯が僕の顔を覗き込む。
「どうした?」
「……何でもない」
重くなった空気を振り払うみたいに、
光知瑠さんが声を上げた。
「なーんか歌いたくなってきた〜!
Hikariでカラオケ大会でもしちゃーう!?」
「うぇーい!いいねー!!」
光流くんが軽快に身体を動かす。
「お!光流そのダンスできるん!?
ウチもいける!ママは!?」
お母さんは、笑いながらタバコを咥えた。
「できん!」
「んじゃ覚えろ!後で三人で動画撮ろ!
れいたん、撮ってくれる!?」
「もちろんよォ〜」
「Hikariは今日臨時休業にすっかー」
タバコの煙が青空に向かって上がる。
僕は颯と顔を見合わせた。
「……仲、良いね」
「光流の家族って感じだな」
光流くんが空を見上げる。
「めっちゃ虹出てる〜!すげ〜!!」
さっきまで薄かった虹が、
夏の青空の中で、はっきりと輪郭を持っていた。
「俺、この家に生まれてよかった!」
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:5月22日21時
第百七十三話 良い子じゃなくても




