第8話 もう1度、あの店のラーメンを
美緒が撮っていた写真には、連絡先が残っていた。
閉店のお知らせの下に、厨房設備や食器の譲渡について、小さく書かれている。俺たちはアパートへ戻ってから、その部分を拡大した。
「やっぱり書いてあった」
美緒が机へスマートフォンを置いた。
「電話してみる?」
時計を見ると、17時を少し回ったところだった。
俺は番号を自分のスマートフォンへ入力した。呼び出し音が3回鳴って、男の声が聞こえた。
『はい』
「突然すみません。閉店のお知らせにあった、道具の件で電話したんですが」
『ああ、店のね。まだ少し残ってるよ。何が欲しいの?』
「できれば、一度見せていただきたくて」
美緒が隣で頷いた。
店主は翌日も片づけに来るという。俺たちは仕事帰りに伺う約束をした。
電話を切ると、美緒が椅子にもたれた。
「緊張した?」
「した。普通に話してくれてよかった」
「何回も食べに行ってたのにね」
「厨房の道具が欲しいって電話するのは初めてだろ」
俺はもう1度、閉店のお知らせを見た。
引退の理由には、年齢と体力のことが書いてある。あの人を街へ連れていって、また店をやってもらうわけにはいかない。
まず、道具を見せてもらう。作り方の話は、それからだった。
*
翌日の夕方、美緒と駅で待ち合わせた。
店があった通りへ入ると、俺たちは少し歩く速度を落とした。
看板は外されていた。窓に貼ってあったメニューもなくなっている。店の前を通るたびに聞こえていた換気扇の音がしなかった。
ただ、入口の扉は開いていた。
「こんばんは。昨日お電話した、相沢です」
奥から店主が出てきた。厨房にいた頃と同じ、短く刈った白髪だったが、今日は前掛けをつけていない。
「ああ、どうぞ」
俺たちの顔を見て、彼は足を止めた。
「来てくれてた2人だよね。窓のところによく座ってた」
「はい」
美緒が嬉しそうに返事をした。
「覚えててくださったんですね」
「何度も来てくれたからね」
店へ入ると、椅子がいくつか重ねられていた。カウンターの端には、段ボール箱が並んでいる。
俺は窓際の席を見た。
最初に美緒と座った場所には、今は鍋が置かれていた。
「残ってるのは、この辺。大きい設備は、もう引き取り手が決まったんだ」
店主が箱を開ける。
丼、れんげ、網じゃくし。縁に青い模様の入った丼を見つけ、美緒が手を伸ばしかけて止めた。
「触ってもいいですか」
「もちろん」
両手で持ち上げた彼女が、俺へ見せる。
「これだね」
「ああ」
店主が笑った。
「家でラーメンでもつくるの?」
俺は少し迷ってから答えた。
「はい。ここのラーメンを、また食べたくて」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、丼だけじゃ味は変わらないよ」
「作り方も、教えていただけないでしょうか」
店主の手が止まった。
思っていたより踏み込んだお願いだったのかもしれない。俺は慌てて言葉を足した。
「材料代や、お時間の分はお支払いします。1回でできるとは思っていないんですが、少しでも近いものをつくれたら」
店主は箱へ目を落とし、れんげを1本取り出した。
「家の台所じゃ、同じようには難しいよ。鍋も火も違うから」
「使える厨房はあります」
「どこかで店をやるの?」
俺は美緒を見た。
彼女は丼をそっと箱へ戻した。
「まだ、そこまでは決まってないんです。まずは、私たちが食べたくて。2人で初めて会った日に、ここへ来たので」
店主が俺たちを見比べた。
「そうだったの」
「緊張して、あまり話せなかったんですけど」
美緒が俺の方を見た。
「ラーメンが来たら、ちょっと楽になって。おいしかったねって、それから話せたんです」
俺も頷いた。
胡椒を入れすぎたことを言うかと思ったが、美緒は言わなかった。
店主はれんげを箱へ戻した。
「明後日なら、まだ寸胴も残ってる。最後に1回、つくってみるかね」
「いいんですか」
「材料、買ってきてもらうよ。食べるだけじゃなくて、仕込みから手伝ってもらうから」
美緒が俺より先に頷いた。
「やります」
*
店主の名前は、野口さんといった。
教わる日は、2人とも休みを取った。
朝8時に店へ行くと、野口さんはすでに厨房で鍋を洗っていた。俺たちも手を洗い、持ってきた前掛けをつける。
買い物は、教えてもらった店で済ませていた。鶏の骨や野菜を台へ並べると、野口さんは袋の中を1つずつ確かめた。
「よし。じゃあ、こっちから」
俺は骨の下処理を、美緒は野菜を任された。
野口さんがやって見せると簡単そうなのに、俺が同じことをすると遅い。包丁を持った美緒も、切り方を何度か直されていた。
「大きさ、揃えた方がいいですか」
「今日は大きく違わなきゃ大丈夫。そっちの小さいのは、先に出すから分けておいて」
美緒は頷き、まな板の端へ寄せた。
鍋を火にかけてからも、することはあった。別の鍋でタレを合わせ、具を準備する。俺がスープの表面を覗き込んでいると、野口さんに網じゃくしを渡された。
「それ、取って」
言われるままに浮いたものをすくう。
「スープまで取らなくていいよ。上だけ」
「あ、はい」
美緒が隣でメモをしていた。
材料の量だけでなく、火を弱めたときの鍋の様子や、野口さんが味を見たタイミングも書いている。
「直人、今の写真撮って」
俺は洗った手を拭き、スマートフォンを出した。
湯気で画面が曇る。少し離れると、美緒に「もうちょっと上から」と言われた。
ゲームで街をつくるときより、細かい注文だった。
昼を過ぎる頃には、店の中に覚えのある匂いが広がっていた。
野口さんが小皿へスープを取り、俺たちへ渡す。
口をつけると、まだ、いつものラーメンとは違った。脂と鶏の味がするが、塩気が足りない。
「ここへタレが入る。どっちかだけ覚えても、同じ味にはならないよ」
俺は小皿を見てから、メモにその言葉を書いた。
*
仕上げは、野口さんがやった。
青い模様の丼へタレを入れ、スープを注ぐ。茹でた麺を湯切りし、丼へ移す。具を載せる手は、俺たちが客席から見ていたときと同じ速さだった。
「はい。伸びる前に食べて」
俺と美緒は、窓際の席へ座った。
湯気が顔に当たる。
れんげでスープをすくうと、醤油の匂いがした。ひと口飲み、美緒を見た。彼女もこちらを見ていた。
「これだね」
「うん」
俺は箸を取った。麺をすすり、もう1度スープを飲む。
仕込みで疲れていたせいか、以前より腹が減っていた。話す間も惜しくて食べていると、野口さんが厨房から笑った。
「ゆっくりでいいよ。今日は後ろに客、いないから」
美緒が箸を止め、笑いながら水を飲んだ。
食べ終わったあと、俺は丼の縁を指でなぞった。
「向こうでも、これをつくれるようになりたいです」
「最初から同じにはならないよ。今日だって、味を決めたのは俺だから」
「はい」
「やってみて、違ったところを聞きにおいで。店は閉めても、電話くらい取れる」
俺は顔を上げた。
美緒が隣で、メモ帳を両手で閉じた。
「ありがとうございます」
帰りには、丼とれんげ、いくつかの道具を譲ってもらった。値段を聞くと、野口さんは最初、材料を買ってもらったからいいと言ったが、俺たちは頼んで代金を受け取ってもらった。
最後に、作業台の下から木箱が出てきた。
中には、店の入口に掛かっていた暖簾が畳まれていた。
「これも持っていく? 捨てるのも、なんだかね」
美緒が俺を見る。
俺は両手で箱を受け取った。
「大事にします」
外へ出ると、夕方になっていた。
美緒は道具の入った袋を持ち直し、俺の抱えた木箱を覗いた。
「入口、寸法見ておかないとね。暖簾、ちゃんと掛けられるように」
「厨房も、今日の店に近くしよう。鍋を置く場所、覚えたし」
「直人、途中から鍋より棚を見てたよね」
「道具、すぐ取れるようになってただろ」
「うん。あれは真似したい」
駅へ向かう途中、箱が腕へ食い込んできた。
持ち直すために立ち止まると、美緒も隣で待ってくれた。段ボール袋の持ち手が、彼女の指にも赤い跡をつけている。
「重いな」
「でも、全部持って帰ろう」
俺は頷き、木箱を抱え直した。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




