第38話 あの日の続きを
建物の並ぶ道を抜けると、フロントガラスの向こうに川が見えた。
水面が陽に光り、その奥には緑の斜面が続いている。川沿いの道を曲がると、見覚えのある木の看板が現れた。俺が車を減速させる前に、美緒が助手席から身を乗り出す。
「ここ。覚えてる?」
「覚えてるよ。最後、曲がり損ねかけた」
「結構な速さで入ろうとするから」
「今日はちゃんと減速してるだろ」
後部座席から、結衣が二人の間へ顔を出した。
「前にも来たの?」
美緒は俺を見てから、結衣へ振り返った。
「うん。二人でね」
「お泊まりした?」
「そのつもりだったんだけど、途中で帰る時間になっちゃった」
結衣は窓の外を見た。木々の間に、川へ下りる小道がある。
「今日は?」
「今日は泊まるよ」
そう答えると、結衣は隣の父親の袖を引いた。
「お父さん、今日は帰らないって」
「聞こえたよ。楽しみだな」
長谷川さんは笑い、娘のずれかけた帽子を直した。
駐車場に車を止め、エンジンを切る。扉を開けた途端、川の音が入ってきた。
画面の中で何度も聞いた音だった。けれど、外へ出ると、その音は木々の向こうから届いていた。車の陰では涼しく、日向へ踏み出すと腕が暖かくなる。足元の砂利が靴の下で鳴った。
美緒も車を下り、川の方を向いたまま立っていた。
「……ほんとに来たね」
「ああ」
結衣が二人の間を通り、川へ続く道をのぞく。
「お水、見ていい?」
「先に荷物を置こう。一人では下りないんだよ」
父親に言われ、結衣は素直に戻ってきた。代わりに車の後ろへ回り、自分のリュックを受け取る。
俺たちは、あの夜と同じ場所へ向かった。
*
テントを張る場所は、川から少し離れた平らな地面だった。木陰が端に掛かり、そこからなら水面も見える。
俺が荷物を置くと、美緒はまず地面を見て、それから頭上の枝を見上げた。
「寝る方はこっちかな。椅子は川が見える向きで」
「テント、二つ並べる?」
「入口を少し向かい合わせようよ。結衣ちゃん、夜にこっちを呼びやすいでしょ」
結衣が父親の手を握ったまま、うなずいた。
俺たちがテントを広げている間、長谷川さんには椅子に座ってもらった。ただ、何もせずにいるのは落ち着かないらしい。結衣と一緒に説明書を読み、俺がポールを持つたびに、次に通す場所を教えてくれた。
「直人君、その先は赤い印の方だね」
「こっちですか」
「うん。今、美緒さんが持ってるところ」
結衣も説明書をのぞき込む。
「これ、もうおうちになる?」
「もう少し。あの棒が立ったら形になるよ」
テントが起き上がると、結衣は小さく拍手した。すぐに中へ入ろうとしたので、美緒が入口の布を持ち上げる。
「靴はここで脱いでね」
結衣は靴をきっちり並べ、四つんばいで中へ入った。窓から顔を出し、父親を呼ぶ。
「お父さん、こっち来て。広いよ」
長谷川さんが立ち上がった。美緒は俺へペグを渡し、二人が入っていくのを見送る。
「よかった。気に入ってくれた」
テントの中から、結衣の声が聞こえた。枕をどちらへ置くか、もう相談が始まっている。
俺は地面へペグを打ち込みながら、その声を聞いていた。
*
川には、長谷川さんと俺で結衣を連れていった。
岸の浅いところへしゃがむと、結衣は水に手を入れ、すぐに引っ込めた。
「つめたい」
「山の方から流れてくるからね」
父親の答えを聞きながら、今度は指先だけを入れる。水底には丸い石が並び、その隙間を細い影が走った。
「いた。お魚」
結衣の指を追って俺も目を凝らしたが、魚はもう石の陰へ隠れていた。
「どこ?」
「そこ。直人くん、遅い」
長谷川さんが笑った。
しばらく三人で水を見ていると、上から美緒が呼んだ。
「お昼できたよ。手、拭いて上がってきて」
結衣が振り返り、父親と俺の顔を順に見た。
「またあとで来る?」
「来よう。ご飯を食べたら」
長谷川さんが答えると、結衣は差し出された手を握り、坂を上がった。
テーブルには、焼いたパンとスープが並んでいた。美緒がパンを開くと、中のチーズが糸を引き、結衣が椅子の上で身を乗り出す。
「これ、私の?」
「そう。熱いから、少し待ってね」
待っている間に、父親が結衣のスープを混ぜた。俺が隣へ座ると、美緒も向かいの椅子を引く。
四人分の食器が、テーブルに並んでいる。
いただきます、と声が重なった。
パンの表面は香ばしく、中は柔らかかった。噛むと溶けたチーズと具の味が広がり、続けて飲んだスープが腹へ落ちる。結衣は両手でパンを持ち、口の端についたチーズを父親に拭いてもらっていた。
美緒はその様子を見てから、自分のパンを食べた。
「どう?」
「うまい」
「外で食べると、違うね」
「もう一個ある?」
「あるけど、夜も食べるよ」
俺が鍋へ伸ばしかけた手を止めると、結衣まで自分のパンを見下ろした。
「夜、何?」
「お肉。お野菜も焼く」
「じゃあ、食べる」
何を決めたのか分からないまま、結衣は残りのパンを口へ運んだ。
*
夕方には、川の向こうの斜面が赤く染まった。
結衣は父親と拾ってきた石をテーブルへ並べ、一番丸いものを美緒に見せていた。俺は焼き網の前で、肉を裏返す。
脂が火へ落ち、炎が上がった。慌てて肉を端へ移すと、美緒が皿を持って来た。
「それ、もう焼けてる?」
「これは焼けてる。こっちはまだ」
「じゃあ、結衣ちゃんの分、切るね」
焼いた肉を小さく切り、野菜と一緒に皿へ盛る。結衣は父親の隣でそれを受け取り、最初の一口を食べると、目を丸くした。
「おいしい」
長谷川さんも肉を口へ運び、ゆっくりとうなずいた。
「うん。おいしいな」
結衣が次の肉を選ぶ間、父親は皿を持ったまま、川へ目を向けた。美緒に飲み物を尋ねられると、少し遅れて振り返る。
「すみません。……こうして食事をするのが、久しぶりで」
「お父さん、昨日も食べたよ」
「そうだね。昨日も食べた」
長谷川さんは娘の髪を撫で、それから俺たちへ頭を下げかけた。
美緒が、その前に焼いた野菜の皿を差し出した。
「こっちもどうぞ。直人が全部食べる前に」
「そんなに食べてないだろ」
「焼きながら食べてた分も入れて」
結衣が俺の皿をのぞき込んだ。長谷川さんは笑って、頭を上げた。
空が暗くなってから、焚き火を囲んだ。
結衣は串に刺したマシュマロを火へ近づけ、父親に少し戻すよう教えてもらう。表面が膨らむと、待ちきれずに口へ運びかけ、美緒に止められた。
ようやく食べたときには、唇に白いものがついた。
「のびる」
結衣は笑い、もう一本の串を父親へ渡した。
その元気も、長くは続かなかった。
昼間、何度も川へ行ったせいか、食べ終えると父親の腕へもたれ始めた。長谷川さんが顔をのぞき込むと、結衣は目をこすりながら首を振る。
「まだ寝ない」
「うん。でも、少し横になろうか」
テントへ連れていくと、結衣は寝袋に入り、父親の袖をつかんだ。
「お父さんも、ここ?」
「ここにいるよ」
入口を閉じる前、長谷川さんが俺たちを見た。
「今日は、ありがとうございました」
「おやすみなさい。また明日」
美緒が答えると、結衣も寝袋の中から手を振った。
*
焚き火の前へ戻ると、急に川の音が大きくなった。
椅子へ腰を下ろし、俺は薪を一本足した。火の粉が上がり、暗い空へ消えていく。
美緒は隣で両手を火へ向けていた。
「あのときも、この辺に座ってたよね」
「もう少し川の方だったかな」
「直人、私の隣に椅子を置くの、何回か失敗してた」
「向きを変えようとすると、変なところへ動くんだよ」
「最後まで斜め向いてた」
思い出して、美緒が笑う。
俺たちは、あの夜も焚き火を見ていた。サービスが終わる時刻を気にしながら、まだ話せることを探していた。画面が止まったあとも通話を切れず、別々の部屋で、しばらく黙っていた。
今、美緒の椅子は俺のすぐ隣にある。
彼女が薪の崩れる音に顔を向け、その頬を火が照らした。風が通ると髪が揺れ、川の方から少し冷たい空気が来た。
「寒くない?」
「ちょっと」
用意していた毛布を渡そうとすると、美緒は自分の肩へ掛け、余った端を俺の方へ広げた。
「直人も」
椅子を少し寄せる。毛布の下で腕が触れ、美緒はそのまま火へ目を戻した。
「今日は、時間を見なくていいね」
俺も、腕時計を見ずに答えた。
「眠くなるまで、ここにいよう」
美緒がうなずいた。
薪が崩れ、二人で火を見た。テントの方は静かで、入口の隙間から小さな灯りが漏れている。
「また来たいな」
「来よう。街から近いし」
「今度は何も忘れずに持ってこないと」
「何か忘れた?」
「お茶。温かいの、飲みたくなった」
俺が腰を浮かせると、美緒が毛布の端を押さえた。
「今はいい。もう少し、こうしてたい」
俺は座り直した。
彼女の手が毛布の下へ戻る。すぐそばにあったその手へ、俺は自分の手を重ねた。
美緒は一度こちらを見て、それから指を絡めた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
川が流れ、焚き火が燃えている。時計を確かめる人も、終わりを知らせる表示もなかった。
美緒が肩を寄せてきたので、俺は毛布を引き上げた。
あの夜、終わってしまったと思った時間の続きを、俺たちはもう少しだけ過ごした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これで第1章は完結です。
直人と美緒の街で描きたい日々は、まだ残っています。第2章については、皆さまの反応も励みにしながら、考えていきたいと思っています。
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また、この街でお会いできましたら。




