第36話 ただいまと言える家
翌朝、リビングへ下りると、長谷川さんがソファの端に座っていた。膝の上には畳まれた毛布があり、片手にはまだ湯気の立つマグカップがある。
「おはようございます。早いですね」
「おはよう。……目が覚めたら、眠れなくなってね」
その視線が、階段へ向いた。上の部屋では結衣が眠っている。
「隣にいるのを確かめても、しばらくすると、また確かめたくなるんだ」
俺は返事をせず、キッチンで自分の分のコーヒーを用意した。昨夜、ラーメンを食べている間も、長谷川さんは何度も結衣を見ていた。娘が麺をすすり、熱いと言って水を飲む。その一つ一つを、目に焼きつけるように。
マグカップを持って戻ると、長谷川さんが姿勢を正した。
「直人君。昨日も言ったけど、できることがあれば、何でも言ってほしい。掃除でも、荷物運びでも」
「腕が治ってからでいいですよ」
「動かせないほどじゃないんだ」
そう言って立とうとした拍子に、顔がわずかに歪んだ。
俺が見ると、長谷川さんは気まずそうに座り直した。
「……重いもの以外なら」
「今の、結衣ちゃんにも見せた方がいいですね」
「それは勘弁してくれ。あの子、こういうところは厳しいんだ」
階段の上で、扉の開く音がした。
長谷川さんの顔が上がる。寝癖のついた結衣が姿を見せると、彼はマグカップをテーブルへ置き、階段の下まで迎えに行った。
「お父さん、いた」
「ああ。いるよ」
結衣は最後の二段を下りて、その腰に抱きついた。長谷川さんが無事な方の腕で背中を抱く。
上から美緒も下りてきた。二人の様子を見て足を止めたあと、俺のそばまで来て、小さな声で言った。
「今日、家を見に行かない?」
「家?」
「二人の。ずっと客室だと、長谷川さんも落ち着かないでしょ」
結衣を抱いている長谷川さんは、階段脇に置いた自分の靴を見ていた。昨夜、洗って乾かした靴だ。それ以外に、持ち物らしい持ち物はない。
「そうだな。近くがいいよな」
「うん。結衣ちゃんが、一人でも遊びに来られるくらい」
*
朝食を済ませ、俺たちは住宅街へ向かった。
結衣は父親と手をつなぎ、ときどきその腕を見上げていた。包帯が気になるらしい。長谷川さんはそのたびに「大丈夫」と言い、三度目には美緒からも「今日は休む日です」と念を押された。
最初に見つけたのは、広い庭のある二階建てだった。
「ここなら、部屋も余るな」
俺が言うと、美緒は門から玄関までを見渡した。
「二人で掃除するには広すぎない?」
「使わない部屋は閉めておけば」
「それなら、最初から使う分だけの家でよくない?」
長谷川さんが門の外でうなずいている。俺は次の家へ進んだ。
美緒が足を止めたのは、俺たちの家から歩いて数分の場所だった。淡い色の外壁に、低い生け垣。玄関脇には自転車を置ける屋根があり、庭は小さいが、日当たりがいい。
「ここ、見てみようよ」
中へ入ると、リビングの窓から庭が見えた。キッチンはその隣で、料理をしながらでも、部屋にいる結衣へ声をかけられそうだった。
美緒は台所から廊下をのぞき、洗面所と風呂の位置を確かめた。
「洗濯して、そのまま外に干せるね。買い物から帰ってきても、玄関から台所が近いし」
俺は窓の大きさくらいしか見ていなかった。美緒はもう、ここで二人が暮らすところまで考えている。
結衣が父親の手を引き、廊下へ向かった。
「こっち、お部屋ある」
寝室は二つ、向かい合うように並んでいた。一方にはベッドと小さな机があり、もう一方には少し大きいベッドがある。
結衣は小さい方の部屋へ入り、窓際の机に触れた。それから廊下に戻り、父親の部屋をのぞく。
「ここ、お父さん?」
「そうだね。ここを使わせてもらうなら」
「寝るとき、ドア開けていい?」
長谷川さんはすぐには答えなかった。娘の顔を見てから、膝を折り、目の高さを合わせた。
「開けておこう。結衣の部屋から、こっちが見えるように」
「電気も?」
「廊下の電気をつけておこうか」
結衣はそれで安心したらしく、もう一度、自分の部屋へ戻った。
机の前に座り、引き出しを一つ開ける。中が空なのを見て閉め、今度はベッドに腰を下ろした。
「美緒ちゃん。ここ、使っていいの?」
「うん。お父さんがよければ」
長谷川さんは部屋の入口に立ったまま、俺を振り返った。
「本当に、いいのかい。こんな家まで」
「空いてますから。俺たちの家にも近いですし」
それでも迷っている様子だったので、俺は少し言い直した。
「結衣ちゃん、もう決めたみたいですよ」
ベッドの上では、結衣が枕を窓側へ動かしていた。父親の部屋に近い方へ寄せたつもりらしい。
長谷川さんはそれを見て、ようやく笑った。
「……じゃあ、お世話になります」
*
昼までに、必要なものをそろえた。
服、歯ブラシ、タオル、食器。結衣は店で選んだ黄色いコップを両手で持ち、家に戻ると、台所の棚へ置いた。
「お父さんのは、ここ」
隣には青いコップが並ぶ。
長谷川さんは棚を見つめたあと、袋から自分の歯ブラシを取り出した。洗面所へ置きに行き、戻ってきたときには、さっきより少し肩の力が抜けていた。
美緒が結衣の服を引き出しへ収めている間、俺は長谷川さんと玄関の外に出た。
庭の端には、何も植わっていない土の区画があった。
「ここ、花でも植えますか」
「結衣、前の家でも育てていたんだ。小さい鉢でね。水をやりすぎて、私の方が止めてた」
長谷川さんの口元が緩む。
「また、育てられるといいな」
「じゃあ、今度一緒に選びに行きましょう」
彼はうなずき、庭から窓へ目を移した。中では結衣が美緒に何かを見せている。昨日、父親が持ち帰った絵だった。
長谷川さんはしばらくそれを見てから、俺に向き直った。
「働くという話は、本気だからね。ただ住まわせてもらうだけでは――」
「お願いしたいことはあります」
俺が言うと、彼の背筋が伸びた。
「まず、結衣ちゃんとここに慣れてください。俺と美緒だけだと、子供に何が必要か、分からないことも多いんです」
長谷川さんは窓を見た。
「何があれば、あの子が安心して暮らせるか。気づいたら教えてもらえると助かります」
「……それなら、できると思う」
「腕が治ったら、ほかのことも相談させてください」
今度は、無理に仕事を探す返事はなかった。
「分かった。まずは、あの子のそばにいるよ」
玄関の扉が開き、結衣が顔を出した。
「お父さん、来て。貼るところ決めて」
俺たちが戻ると、結衣はあの絵を持って、リビングの壁の前に立っていた。長谷川さんが少し高い位置を指すと、結衣は首を振った。
「そこ、見えにくい」
「じゃあ、この辺かな」
「うん。帰ってきたら見えるところ」
美緒が用意した額に絵を入れ、壁へ掛ける。描かれた父親と、すぐ下に立つ父親を見比べて、結衣が満足そうに笑った。
*
夕方、俺と美緒は自分たちの家へ戻ることにした。
長谷川さんは玄関まで見送りに来たが、結衣は急いで靴を履き、俺たちと一緒に外へ出た。
「送ってくれるの?」
美緒が聞くと、結衣はうなずいた。
「途中まで」
父親もついてきた。角まで四人で歩き、そこで別れる。
「また明日ね」
「うん」
結衣は美緒に手を振り、父親と並んで来た道を戻っていった。俺たちが角を曲がる前に振り返ると、ちょうど二人が家へ着いたところだった。
長谷川さんが玄関を開ける。結衣は先に入ろうとして、一度足を止めた。
「ただいま」
その声が、静かな通りまで届いた。
父親は娘を見下ろし、それから開いた扉の向こうを見た。
「ああ。ただいま」
結衣が中へ駆け込み、廊下の電気がついた。窓越しに、壁へ掛けた絵が見える。
美緒が俺の袖を軽く引いた。
「この家でよかったね」
「うん」
玄関が閉まるまで見届けてから、俺たちも歩き出した。
家に着くと、美緒は靴を脱ぎながら、いつもの調子で言った。
「ただいま。……今日、夕飯どうする?」
「作るか。冷蔵庫に何かあったよな」
「何かって。そこから?」
笑いながら台所へ向かう美緒の後ろを、俺も追った。明日は長谷川さんたちを買い物へ案内しよう。結衣が育てる花も、そのときに選べばいい。
廊下の向こうから、美緒が俺を呼んだ。
「直人、卵取って」
俺は冷蔵庫を開け、四つ入りのパックを手に取った。
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