第35話 持ち出せなかったもの
結衣と長谷川さんには、俺の家の空いている部屋を使ってもらうことにした。
美緒が寝具を取りに行き、俺は隣の部屋から椅子を運んだ。結衣は父親の手を引き、窓から見える庭を教えていた。
「ここの鉢、私も水あげてる」
「そうか。いっぱいあるな」
「こっちは、まだ触ったらあかん」
長谷川さんは頷き、指された鉢へ身を屈めた。
結衣は父親が立ち上がるたび、その袖をつかんだ。洗面所へ案内するときも、コップを取りに行くときもついていく。
長谷川さんは急がず、結衣に合わせて家の中を歩いていた。
俺は廊下からその様子を見て、リビングへ戻った。
ソファに腰を下ろすと、膝の擦り傷が痛んだ。美緒が洗ってくれたあと、絆創膏を貼ってある。
「そこ、また血が出てない?」
美緒が隣へ座った。
「大丈夫。曲げると痛いだけ」
「今日はもう、走らんでよ」
俺は頷いた。
美緒は俺の脚を見てから、壁の管理画面へ目を向けた。
「学校の入口、どうする?」
「外の様子を確認してから消す」
神谷が追ってくることはなかった。けれど、俺たちが逃げた方向を覚えていれば、また探しに来るかもしれない。
美緒の部屋の周辺と、学校の様子は確かめておきたかった。
*
美緒の部屋へつながる窓を開いた。
部屋の中は静かだった。玄関の向こうで、何かを擦る音がする。逃げ込んだときについてきたゾンビが、まだ廊下にいるらしい。
神谷たちの声はしなかった。
次に、学校の用具室へ切り替えた。
棚の裏から見える室内に、箱が倒れていた。床には袋入りの乾麺が散らばり、入口の向こうで人が走っている。
俺は音声を聞けるようにした。
「それは残してください!」
女性の声だった。
朝、俺に箱を運ぶよう頼んだ人が、用具室の入口に立っていた。
その前を押しのけ、神谷が入ってくる。
袖に血がついていた。金属の棒は持っていない。代わりに大きな袋を広げ、棚の缶詰を掴んで放り込んだ。
「どいてろ!」
「給食室にも、もうありません。子どもたちが——」
「ここにいたら死ぬぞ。逃げるなら自分で持て!」
佐伯も入ってきた。
両腕に、米袋を抱えていた。
「車、動くんですか」
神谷が尋ねた。
「前が塞がってる。裏へ回す」
「誰が運転する」
「俺がやる。早く積め」
女性が佐伯の前へ出た。
「人を乗せるんじゃなかったんですか。荷台まで食料で埋めたら、乗れません」
「歩ける人は裏から出て。車には全部乗らない」
「怪我をしてる人は?」
「今は話してる場合じゃない!」
佐伯が女性の肩を押した。
女性は棚へぶつかり、片手で身体を支えた。
俺の隣で、美緒が息を呑んだ。
廊下の奥から、悲鳴が上がった。
神谷が入口を振り返る。
「門、誰が見てる!」
「お前が開けろと言ったんだろう!」
佐伯が怒鳴り返した。
「戻ってきたあいつを入れたのは、お前だ!」
俺は駐車場に残された男を思い出した。
神谷に手を貸せと叫んでいた。
男も学校まで戻ったのだ。
用具室の外で、誰かが扉を閉めようとしていた。激しくぶつかる音に続き、ガラスが割れる。
女性は倒れた箱を跨ぎ、廊下へ出た。
「裏口へ! 給食室の方!」
走りながら、ほかの人へ呼びかける。
佐伯は米袋を床へ下ろした。
神谷がその1つを拾った。
「置け。先に車を——」
「向こうへ出たら、食う物がなくなる!」
神谷は袋を抱え、入口へ向かった。
廊下から、人が倒れ込んできた。
俺たちを追った男だった。
片足を引きずり、手を伸ばしている。ズボンの裾が濡れ、その下の皮膚が大きく裂けていた。
「神谷……」
神谷は後ろへ下がった。
「来るな!」
男が床へ膝をつく。
その背中へ、廊下から伸びた手が掛かった。
男の身体が後ろへ引かれた。扉の枠へ肩がぶつかり、指が床を掻く。
「助け——」
声が途切れた。
神谷は米袋を落とした。
佐伯が扉へ手を掛けたが、男の脚が挟まって閉まらない。
廊下の向こうから、さらに腕が伸びてくる。
「押せ!」
佐伯が叫んだ。
神谷も扉へ身体を押しつけた。
男の脚が不自然に曲がった。
それでも、扉は閉まらなかった。
*
「直人」
美緒が俺の腕に触れた。
声のした方を見ると、長谷川さんが廊下に立っていた。
結衣は一緒ではなかった。
「結衣、寝ました」
長谷川さんはそう言い、壁の窓へ目を向けた。
俺は席をずらした。
何が起きているのか説明する前に、窓の向こうで佐伯が叫んだ。
扉の隙間から入った手が、その腕を掴んでいた。
神谷は扉を押すのをやめ、佐伯の背中を押した。
「離せ! おい、神谷!」
佐伯の身体が入口へ押しつけられる。
神谷は後ろへ逃げた。
棚へぶつかり、積まれていた箱が落ちる。床へ座り込んだところへ、佐伯の叫びが続いた。
袖の上から、歯が食い込んでいた。
佐伯は腕を振った。廊下へ引かれそうになり、扉の枠へしがみつく。
神谷は立ち上がり、窓へ向かった。
机を足場にして窓を開けようとする。けれど、内側に張りつけた板が邪魔をしていた。
昨日、俺たちも手伝って取りつけた板だった。
紐を引きちぎろうとする指が滑る。
神谷は机から降り、棚の奥へ走った。
そこには、俺たちが使った出入口があった。
神谷が壁へ背中を押しつけた。
窓も表示も、その男には見えていない。
俺たちのいる場所へ、来ることはできなかった。
佐伯が入口から倒れ込んだ。
喉元を押さえ、床を這う。残された米袋を掴み、それを盾にするように身体の前へ持ち上げた。
袋の端が引っかかり、米がこぼれた。
佐伯は袋を放した。
何体もの足が、白い粒を踏んで入ってきた。
神谷は棚から缶詰を掴み、投げつけた。顔に当たった1体がよろけても、後ろから次が来る。
身体を掴まれ、壁へ押しつけられた。
「来るな! 離せ!」
神谷は肘を振った。
腕へ噛みつかれ、叫び声が変わった。
長谷川さんが、窓から目を逸らした。
俺は表示を消そうとして、手を止めた。
神谷の身体が床へ沈む。佐伯はもう動いていなかった。声が途切れたあとも、2人の上に屈んだ影が離れなかった。
俺は窓を閉じた。
*
リビングが静かになった。
外から、車が通り過ぎる音が聞こえた。
長谷川さんはソファの背へ手を置き、しばらく黙っていた。
「ほかの人は……」
「裏へ逃げるように、呼びかけている人がいました」
俺は答えた。
「何人出られたかは、わかりません」
長谷川さんは頷いた。
学校には、俺たちを止めようとしなかった人もいる。水を分け、食事を作り、子どもの世話をしていた人たちがいた。
今から戻っても、用具室には出られない。廊下の様子も、もう見えなかった。
俺は管理画面を開き、学校の出入口を解除した。
登録先の一覧から、桜川小学校が消えた。
長谷川さんはその表示を見て、顔を伏せた。
「平田さんが帰ってこなかった理由、聞けませんでしたね」
「はい」
確かめることは、もうできない。
長谷川さんは眼鏡を外し、掌で目を押さえた。
美緒が台所へ立った。戻ってきた手には、温かいお茶が3つあった。
長谷川さんは両手でカップを受け取った。
「俺、ここで働きます」
少しして、そう言った。
「何ができるか、まだわかりません。でも、結衣を預かってもらって、俺まで住まわせてもらうんですから」
「仕事は、明日から一緒に探しましょう」
俺はカップを机へ置いた。
「今日は、結衣のそばにいてください」
廊下から、裸足の足音がした。
「お父さん?」
結衣が部屋の入口に立っていた。片手で目を擦り、俺たちの顔を見回す。
長谷川さんはカップを置いた。
「ここにいるよ」
結衣が駆け寄る。
長谷川さんは抱き上げ、隣へ座らせた。
「起きたら、いなかった」
「ごめんな。お兄ちゃんたちと話してた」
結衣は父親の袖を掴んだまま、俺と美緒を見た。
「今日、ご飯どうする?」
美緒が俺へ顔を向けた。
俺は頷いた。
「ラーメン、食べに行こうか」
「お父さんも?」
「もちろん」
結衣が父親の腕を引いた。
「私、知ってる。おいしいとこ」
長谷川さんは眼鏡を掛け直し、結衣へ笑いかけた。
「じゃあ、案内してくれるか」
結衣は頷いた。
俺は玄関の棚から車の鍵を取った。
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