第34話 お父さんが帰ってきた
長谷川さんは、俺が手を置いた壁を見ていた。
棚も扉もない、白い壁だ。ここから帰れると言われても、何をすればいいのかわからないのだろう。
「結衣は、俺が持っていたゲームの街で暮らしています」
長谷川さんが顔を上げた。
「ゲーム?」
「サービスは終わったんですが、なぜか街だけが残っていて。俺たちは、その中へ入れます」
口に出すと、やはり信じてもらえそうになかった。
長谷川さんは俺と美緒を交互に見た。美緒が壁のそばへ立つ。
「私も最初は、何も見えませんでした。直人に登録してもらって、初めて見えるようになったんです」
「……結衣も、そこへ?」
「はい。今は街の人に預かってもらっています。食べ物も水もあります。外の人たちは、ここから入れません」
廊下で、足を引きずる音がした。
長谷川さんが玄関を振り返る。
俺は壁に表示された管理画面を開いた。
「窓を見えるようにします。壁に手を置いてもらえますか」
長谷川さんは少し迷ったあと、俺の隣へ来た。
掌を壁へ当てる。
登録の操作をすると、その手が止まった。
壁に現れた窓へ、長谷川さんが顔を近づけた。
「これ……」
窓の向こうには、俺の街があった。
海沿いの道路を車が走っている。交差点で止まったバスから人が降り、歩道を自転車が通り過ぎた。遠くの港には白い船が浮かんでいた。
長谷川さんは眼鏡を押し上げた。
「今、動いてますよね」
「はい。結衣も、この街にいます」
俺は表示を自宅の近くへ切り替えた。
庭のある家が並び、街路樹の下を犬を連れた人が歩いている。
長谷川さんの目が、その人を追った。
「こんな場所が……」
言いかけて、俺を見た。
「だから、どこにいるのか言えなかったんですね」
「すみません。誰でも招けるわけじゃなくて」
長谷川さんは首を振った。
「結衣がここにいるなら、それでいいです」
窓の下にある《街に入る》を示した。
「これを押してください。向こうは俺の家です。俺たちもすぐ行きます」
長谷川さんが表示へ指を伸ばす。
次の瞬間、その姿が消えた。
美緒が窓を確かめた。街の自宅のリビングに、長谷川さんが立っている。
「先に行くね」
俺は頷き、美緒に続いて《街に入る》を押した。
*
足元が家の床へ変わった。
長谷川さんはリビングの真ん中で立ち尽くしていた。窓の外を見てから、ソファの背へそっと手を置く。
美緒が玄関の鍵を取り、俺を振り返った。
「車、私が出す。直人は座ってて」
「頼む」
脚にはまだ力が入りにくかった。
俺は連絡端末を取り、ミナの家を呼び出した。
「相沢です。戻りました。今から結衣を迎えに行ってもいいですか」
ミナの母親は、すぐに来ていいと答えてくれた。
結衣へ代わろうとしたので、俺は慌てて続けた。
「そのままで大丈夫です。あとで話します」
通話を終えると、長谷川さんがそばに立っていた。
「会えるんですね」
「はい。車で、すぐです」
長谷川さんは頷き、胸ポケットを探った。
財布を出し、中を確かめる。その手を見て、俺もポケットへ手を入れた。
「これ、返します」
結衣と両親が写った写真のケースを渡した。
長谷川さんは両手で受け取った。
蓋を開け、砂浜に立つ結衣へ指を触れる。
「ありがとうございます」
ケースを閉じると、玄関へ向かった。
*
車が通りへ出ると、長谷川さんは後部座席で窓の外を見ていた。
信号が青に変わり、横断歩道を人が渡る。買い物袋を提げた女性が、小さな子の手を引いていた。
車内では、いつも聞いていたラジオが流れている。
長谷川さんは何度も何か言いかけたが、そのたび口を閉じた。
住宅街へ入り、美緒が速度を落とす。
ミナの家の前で車を止めると、長谷川さんはすぐにシートベルトを外した。
「ここですか」
「はい」
俺が答えるより先に、玄関の扉が開いた。
結衣が出てきた。
俺たちの車を見つけ、段差を降りる。
「お姉ちゃん!」
美緒が運転席から出た。
結衣は駆け寄ろうとして、後部座席の扉が開くのを見た。
長谷川さんが車から降りた。
結衣の足が止まった。
美緒の肩越しに、父親を見ている。
長谷川さんは車の扉へ手を置いたまま、結衣の顔を見た。
「結衣」
名前を呼ぶと、結衣の口が小さく開いた。
「……お父さん?」
「うん」
長谷川さんがしゃがんだ。
結衣は歩き出した。最初の数歩はゆっくりで、途中から走った。
父親の胸へ飛び込む。
長谷川さんが両腕で受け止めた。結衣の身体を抱え、頬へ顔を押しつける。
「結衣。ごめんな。遅くなって」
結衣は父親の服をつかんだ。
「帰ってくるって、言った」
「うん。言った」
「ずっと、待ってた」
「ごめん」
長谷川さんの肩が震えた。
結衣は何度も顔を離し、父親を見た。そのたびに、また抱きつく。眼鏡がずれ、長谷川さんは片手で直そうとしたが、結衣を離せず、そのままにした。
ミナの母親が玄関へ出てきた。
俺はそばへ行き、頭を下げた。
「結衣のお父さんです。見つかりました」
「まあ……」
女性は2人を見て、目元を押さえた。
玄関の内側から、ミナが顔を出していた。結衣を呼ぼうとして、母親に肩を抱かれ、その場で待った。
俺は車の脇へ戻った。
美緒が、しゃがんでいる2人を見ていた。
その手が俺の袖へ触れた。
「会えたね」
「ああ」
美緒は頷き、指で目元を拭いた。
*
家の中へ入っても、結衣は父親の手を離さなかった。
居間の椅子に座ると、隣ではなく膝へ乗った。長谷川さんは背中へ腕を回し、その重さを確かめるように抱き直した。
「ご飯、食べてるか」
結衣は頷いた。
「ここでも食べた。ミナちゃんと一緒に」
「そうか」
「お父さんは?」
「食べたよ」
結衣は父親の袖を見つけた。
腕をつかまれたとき、布が少し裂けていた。
「どうしたの」
「引っかけた。大丈夫」
長谷川さんは裂け目を内側へ折り、結衣の髪を撫でた。
結衣はしばらく黙っていた。
父親の胸へ頬をつけてから、小さく尋ねた。
「お母さんは?」
長谷川さんの手が止まった。
俺は美緒と顔を見合わせた。
母親が噛まれたことも、結衣を別室へ隠したことも、長谷川さんには話してある。
長谷川さんは結衣を膝の上で少し離し、顔を見た。
「お母さん、結衣を隠してくれたんだな」
「開けたらだめって」
「うん」
「お母さんが呼んでも、絶対開けたらだめって言ったから……」
結衣の目から涙が落ちた。
「私、開けなかった」
長谷川さんが、もう1度抱き寄せた。
「うん。ちゃんと聞いたんだな」
「お母さん、来られないの?」
「……連れてこられなかった。ごめんな」
結衣は父親の胸へ顔を伏せた。
長谷川さんは背中を撫で続けた。自分も泣きながら、結衣が顔を上げるたび、その涙を拭いた。
誰も話しかけなかった。
ミナの母親がティッシュの箱を机へ置き、美緒が結衣の足元へずれた靴下を直した。
俺は椅子に座ったまま、2人が落ち着くのを待った。
*
結衣が泣き疲れたころ、ミナが紙を持ってきた。
「これ、置いといたよ」
結衣が顔を上げる。
「私の絵」
受け取った紙を、父親へ差し出した。
広場の木とベンチが描かれていた。手前には結衣と俺と美緒がいる。その隣に、眼鏡を掛けた人が描き足されていた。
長谷川さんは紙を受け取り、自分の顔を指した。
「これ、俺?」
「うん。来たら、一緒に行くから」
「ここ、どこだ?」
「広場。私、知ってる」
結衣は父親の膝から降り、手をつかんだ。
「教えてあげる」
長谷川さんは立ち上がりかけたが、結衣が急に振り返った。
「お父さん、今日は泊まる?」
その手を握ったまま、長谷川さんは俺を見た。
俺は頷いた。
「部屋、用意します」
長谷川さんは結衣の前へしゃがんだ。
「今日は一緒にいるよ」
「明日も?」
「明日も」
結衣は父親の手を両手で包み、ようやく笑った。
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