第33話 5分が過ぎても
角を曲がった先に、配達用の軽ワゴンが止まっていた。
運転席の扉が開き、路地の半分を塞いでいる。俺は扉の外側を回り、左へ伸びる道へ入った。
美緒たちが向かったのは北だ。
俺は西へ走っていた。もう1度角を曲がれば、学校へ向かう通りに出てしまう。
追ってくる足音は、まだ2人分あった。
「止まれ!」
神谷が叫ぶ。
止まれば殺される。
息を吸おうとすると、喉の奥が痛んだ。学校で数日過ごしただけで脚が鈍るはずはない。それでも、全力で走り続けられる時間は思っていたより短かった。
路地の先に、塀で囲まれた駐車場が見えた。
道路側には車が横並びになっている。奥には住宅へ抜ける細い通路があった。門扉は開いていたが、その向こうまでは見えない。
俺は駐車場へ入った。
車の間を抜け、奥の通路へ向かう。背後で神谷たちが角を曲がってきた。
「そっちだ!」
通路の入口で、足を緩めた。
向こう側に、ゾンビがいた。
家の勝手口へ身体を押しつけている。足元には割れた植木鉢が散らばり、動くたびに靴底が破片を擦っていた。
通れるか。
俺は一歩踏み込み、その顔がこちらへ動いた瞬間、後ろへ下がった。
駄目だ。細すぎる。
戻ると、男が駐車場へ入ってきていた。神谷は道路側に残り、車の間を見ている。
俺は車の陰へしゃがんだ。
前にも後ろにも出られない。
*
美緒は長谷川さんと、住宅の間を北へ進んでいた。
塀の向こうから男の声が聞こえる。そのあと、足音が西へ遠ざかっていった。
直人が追われている。
立ち止まりそうになったが、長谷川さんが足を止めるのを見て、美緒は先の道を指した。
「もう少しです。パン屋のところで右へ」
長谷川さんは頷いた。息が上がり、返事をする余裕はなさそうだった。
閉じた店の前を通り、小さな駐車場へ入る。
北側には自動販売機が2台並んでいた。その裏に入ると、道路から姿が隠れる。
美緒はスマートフォンの時計を見た。
ここに着いてから5分。
直人と決めたとおり、待つ。
長谷川さんは膝に手をつき、呼吸を整えた。
「相沢さん、こっちへ来られますか」
「来ます」
答えてから、美緒は駐車場の入口を見た。
直人が現れたら、まず怪我がないか確かめよう。長谷川さんに街のことを説明するのは、そのあとでいい。
そう考えながら、スマートフォンを握り直した。
*
俺は車の下から、男の靴を見ていた。
男は1台ずつ、車の向こうを覗いている。こちらへ近づくたび、靴底が砂利を踏んだ。
「奥へ入っただろ」
道路にいる神谷が言った。
「いない。抜けたんじゃないか」
「見てこい」
靴が俺のそばを通り過ぎた。
男は奥の通路へ入っていった。
勝手口を押していたゾンビが、歩く音に反応した。植木鉢の破片が鳴る。
「いるぞ!」
男の声がした。
俺のことではなかった。
狭い通路で、何かが塀にぶつかった。男が後ろへ下がり、駐車場へ戻ってくる。
神谷が金属の棒を持って駆け寄った。
「どけ!」
俺は車の陰で身を縮めた。
棒が振り下ろされる音がした。ゾンビの身体が車の側面に当たり、防犯装置が鳴り始める。
鋭い電子音が、駐車場に響いた。
「うるせえな!」
神谷が車を睨む。
通路の奥から、別の足音が近づいた。
男が振り返った。そのとき、倒れたはずのゾンビが膝を動かした。
男の足首へ手が伸びる。
「離せ!」
男が蹴ろうとし、身体を傾けた。
俺の位置からは、その先が見えなかった。
叫び声が上がった。
俺は車の反対側へ這って移動した。神谷も男も、奥の通路を向いている。
道路側へ抜ける隙間があった。
立ち上がらず、車の鼻先まで進む。通りの向こうで、2体のゾンビが警報音へ向かって歩いてきていた。
俺はその反対へ走った。
「神谷! 手、貸せ!」
背後から男の声がした。
続いて、神谷の足音が駐車場の入口へ近づく。
俺は道路脇の植え込みへ入り、低い塀の陰に伏せた。
砂利が膝へ食い込んだ。息を止めようとしても、胸が勝手に動く。
足音が通りへ出てきた。
「神谷!」
男がまた呼んだ。
神谷は答えなかった。
塀の向こうを靴が走り過ぎる。学校の方へ向かっていた。
俺は顔を上げず、遠ざかる足音を聞いた。
車の警報は、まだ鳴っていた。
*
4分が過ぎた。
美緒はスマートフォンをポケットへしまい、また取り出した。
駐車場の前を、ゾンビが1体通った。片方の靴が脱げている。裸足の裏がアスファルトに擦れ、湿った音を立てていた。
長谷川さんが身体を引き、美緒も自動販売機の陰へ深く入る。
離れた場所で、車の警報が鳴っていた。
直人が走っていった方角だった。
「もう少し、待ちませんか」
長谷川さんが尋ねた。
美緒は時計を見た。
5分を過ぎていた。
入口へ目を戻す。誰も来ない。
あと1分なら。
その考えが浮かんだ。
けれど直人は、5分で来なければ先に進めと言っていた。ここに留まって捕まれば、直人が逃げた意味まで失わせる。
「部屋へ行きます」
声に出すと、長谷川さんは唇を結んだ。
「……はい」
美緒は駐車場の入口を確かめた。
さっきのゾンビは、警報の鳴る方へ曲がっていた。
2人は自動販売機の裏を離れ、アパートへ向かった。
*
合流場所の駐車場に着いたとき、俺は塀へ手をついた。
呼吸が収まらず、脚が震えていた。
自動販売機の裏へ回る。
誰もいなかった。
スマートフォンで時刻を確かめても、美緒たちが着いた時刻はわからない。それでも、俺が走って逃げ、駐車場で隠れていた間に5分が過ぎたのだろう。
待ち合わせの次は、美緒の部屋。
俺は自動販売機の側面から通りを見た。
人影はない。
美緒は決めたとおりに動く。俺が来なかったからといって、危険な道を探しに戻ったりはしない。
そう信じて、駐車場を出た。
*
アパートへ着くと、外階段の下に自転車が倒れていた。
奥の廊下に、1体いる。
壁へ額をつけていたが、俺が自転車を跨ぐと、ゆっくり顔を上げた。
階段までは数メートルだった。
俺は手すりをつかみ、2階へ上がった。踊り場で振り返ると、ゾンビが階段へ向かってきていた。
美緒の部屋の扉は閉まっている。
鍵が掛かっていた。
俺は扉を叩こうとして、手を止めた。
階段の下で、足を引きずる音がする。
扉へ顔を寄せ、小さく呼んだ。
「美緒。俺だ」
中で足音がした。
鍵が回り、扉が開く。
美緒が俺の腕をつかんだ。
部屋へ引き込まれた途端、長谷川さんが扉を押し閉めた。鍵と補助錠を掛ける音が続いた。
俺は玄関の壁へ背中をつけ、そのまま座り込んだ。
「怪我は?」
美緒が膝をついた。
首を振ろうとして、息が詰まった。
「噛まれてない。服、つかまれただけ」
美緒は俺の肩と背中へ手を回し、破れていないか確かめた。
長谷川さんが水を持ってきた。
「ゆっくり飲んでください」
俺はペットボトルを受け取り、少しずつ口へ含んだ。
美緒が俺のそばへ座る。
「5分で、出たよ」
「ああ」
「待とうかと思った。でも、ここへ来た」
「ありがとう」
美緒は顔を伏せた。俺の袖を握った手が、なかなか離れなかった。
扉の外で、何かが擦れた。
3人とも黙った。
階段を上がってきたゾンビが、廊下を歩いている。足音が扉の前を通り過ぎ、隣の部屋の方へ遠ざかった。
俺はペットボトルを床へ置き、長谷川さんを見上げた。
「ここから、結衣のところへ帰れます」
長谷川さんが俺の前へしゃがんだ。
「俺、何をすればいいですか」
俺は立ち上がり、美緒に支えてもらいながら、部屋の中へ進んだ。
出入口を登録した壁へ手を置く。
俺と美緒には、その向こうの街が見えている。
長谷川さんには、まだ普通の壁だった。
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