第31話 ここを出よう
朝になっても、平田さんは戻らなかった。
机に置かれていた食事は、配膳を手伝う女性が下げた。長谷川さんは礼を言い、器の下に敷いていた布を畳んだ。
俺は美緒と廊下へ出た。
「今日、長谷川さんに話そう」
声を落として言うと、美緒は頷いた。
「街のこと?」
「ああ。結衣のところへ連れて帰りたい」
この2日、長谷川さんは結衣に会いたいと言いながらも、俺たちを急かさなかった。水を運び、子どもの世話を手伝い、昨夜は平田さんの帰りを待っていた。
結衣と一緒に暮らしてもらいたいと思った。学校にいるほかの人たちをどうするかは、まだ答えが出ない。それでも、父親を迎える決心まで先延ばしにする理由はなかった。
「先に用具室を見てくる。落ち着いて話せる時間を作ろう」
「私は長谷川さんといる。空いたら呼んで」
俺たちは廊下の角で別れた。
*
用具室では、担当の女性が箱の中身を確かめていた。
「何か手伝いますか」
「助かる。これを給食室へ運んでくれる? 午後に回収の人が戻るから、場所を空けておきたいの」
指定された箱を台車へ載せた。
出入口のある棚の裏は、昨日と同じだった。壁の前まで通れる。ただ、今は人の出入りが多い。長谷川さんに説明し、登録するには、片づけが終わるのを待った方がよさそうだった。
「お昼までには終わりますか」
「そのつもり。あとで床も拭きたいね」
給食室へ箱を運び、戻ってくると、美緒が廊下で待っていた。
「長谷川さん、放送室を借りられるか聞いてくるって。私たちと帰り方を相談したいから」
「午後なら、こっちも空きそうだ」
美緒の顔が少し緩んだ。
「結衣、びっくりするね」
「ああ」
ミナの家へ父親と一緒に迎えに行こう。
結衣が気づくまで、玄関で待っていてもらえばいい。俺たちを見つけて走ってきたあと、その後ろにいる人を見て、どんな顔をするだろう。
久しぶりに、帰ってからのことを考えられた。
*
軽トラックが戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。
俺たちは用具室の片づけを終え、荷下ろしに出た。
荷台には段ボールのほかに、袋やリュックが積まれていた。助手席から降りた男が、運んできた場所を説明する。
「南の住宅街。何軒か、まだ物が残ってた」
「家の人は?」
そばにいた女性が尋ねた。
「いなかった。呼んでも返事がないし、中も見たよ」
女性は頷き、差し出された箱を受け取った。
俺が米袋を下ろした隣で、長谷川さんは大きな手提げ袋を受け取っていた。
次に、青いリュックが荷台から下ろされた。
長谷川さんの手が止まった。
男はリュックを地面へ置き、次の箱へ手を伸ばす。周囲の人は荷物を運び続けていたが、長谷川さんだけが足元を見ていた。
「長谷川さん?」
呼ぶと、顔を上げた。
「あ、すみません。これ、運びます」
俺と一緒に袋を用具室へ運んだあと、すぐに外へ戻っていった。
次に戻ってきたとき、その手には青いリュックがあった。
*
回収した荷物を種類ごとに分けた。
食料は給食室へ。衣類と日用品は棚へ。袋や鞄も空にして、使える物を残す。
長谷川さんは青いリュックを机に置き、缶詰を取り出した。上着とタオルを出したあと、脇のポケットへ指を入れる。
出てきたのは、眼鏡のケースだった。
蓋を開けた途端、長谷川さんの指が止まった。
中には、眼鏡が入っていた。
「食料、ほかにもあります?」
担当の女性が尋ねた。
長谷川さんはケースを閉じた。
「いえ。もうありません」
「じゃあ、そっちの棚へ。鞄も残しといてね」
女性は缶詰を箱へまとめ、廊下へ運んでいった。
長谷川さんは眼鏡のケースをリュックへ戻した。棚に載せる手が、少し震えていた。
「相沢さん。三崎さんも、少しいいですか」
*
放送室へ入り、扉を閉めた。
長谷川さんは廊下の足音が遠ざかるまで待った。
「あのリュック、平田さんのです」
「確かなんですか」
「肩紐を縫ったの、俺なんです。ここへ来てすぐ、ほつれてるから手伝ってくれって。黒い糸しかなくて、目立つなって笑ってました」
昨日の朝、平田さんは青いリュックを背負って出ていった。
脇のポケットには、眼鏡のケースもあった。
「眼鏡、掛けて出ましたよね」
長谷川さんが尋ねた。
「俺が布を貸して、拭いてた」
「見ました」
「それが、ケースに入ってました。あの人、眼鏡がなければ歩くのも危ないんです。リュックと一緒に置いて、どこへ行ったんでしょう」
俺は答えられなかった。
落とした眼鏡を拾ってきたのではない。ケースへ収められ、荷物と一緒に戻ってきている。
「今日の人たちは、家にあったと言ってました」
美緒が言った。
長谷川さんは頷いた。
「神谷さんは、途中ではぐれたと言ってました。でも、平田さんの荷物が見つかったなら、まず知らせてくれるはずですよね」
そうだった。
帰りを待っている人がいる。荷物だけでも手がかりになる。わざわざほかの回収品と混ぜ、持ち主の名前も出さないのはおかしい。
「平田さん、前にも回収のことで神谷さんと揉めてました」
長谷川さんは椅子へ座った。
「俺、そのときは見てただけなんです。持ち主がいるかもしれないと言われても、ここにも食べ物が必要だと思って」
両手で顔を擦り、顔を上げる。
「神谷さんに聞きたいです。でも、もし平田さんが、そのせいで帰ってこないんだったら」
声が途切れた。
俺は長谷川さんの前へ椅子を寄せた。
「ここを出ましょう。結衣のところへ連れていきます」
「帰れますか」
「はい。普通の道順とは違うんですが、帰る方法があります。今日、その話をしようと思ってました」
長谷川さんは俺の顔を見つめた。
「説明だけでは信じられないと思います。あとで見せます。まず、荷物を取ってきてください」
「わかりました」
長谷川さんが立ち上がった。
美緒も続こうとしたが、長谷川さんは首を振った。
「すぐそこです。すぐ戻ります」
袋は教室の机の下に置いてある。俺と美緒は、用具室へ入るタイミングを確かめながら待った。
*
戻ってきた長谷川さんは、袋を胸に抱えていた。
扉を閉めるなり、俺たちへ近づく。
「娘を預けてる場所、誰にも教えてないですよね」
「教えてません。どうしたんですか」
「佐伯さんと神谷さんが、話してました」
長谷川さんは呼吸を整えた。
教室へ向かう途中、受付の脇から自分の名前が聞こえたのだという。足を止めると、佐伯さんが結衣のことを尋ねていた。
「娘を預かれる連中がいるんだろ。あの2人も、数日ここに泊まって平気でいる。向こうには食い物があるはずだって」
俺は美緒を見た。
美緒も、俺を見ていた。
「学校から物資を持っていって、交換する話ですか」
長谷川さんは首を振った。
「神谷さんが、場所を聞いても言わないだろうって言ったんです。そしたら佐伯さんが……」
袋を握る手に力が入った。
「俺を残せば、戻ってくるって。娘に会いたければ、案内するだろうって」
俺は立ち上がった。
長谷川さんを人質にして、俺たちに場所を教えさせるつもりだった。
「相手が渡さなかったらどうする、とも聞いてました。佐伯さんは、車と人を揃えて行くって。ここに運べる物は、全部運ばせるって」
昨日、平田さんは、米を持ち帰った家の人を気にしていた。
神谷さんと出ていき、戻らなかった。
今度は、結衣がいる場所へ来ようとしている。
長谷川さんが俺へ顔を寄せた。
「俺のせいで、娘のところへ行かせるわけにはいきません。あの人たちに捕まる前に、出たいです」
「一緒に出ます」
俺は答えた。
街の存在は知られていない。場所を教えたところで、神谷たちには入口さえ見えない。
けれど、それを確かめさせるために、長谷川さんを渡すつもりはなかった。
美緒が扉を少し開けた。
廊下の向こうから、神谷の声が聞こえた。
「長谷川さん、どこにいる?」
美緒は音を立てずに扉を閉めた。
用具室へ向かうには、受付の前を通らなければならない。
俺は窓へ寄り、給食室の裏へ続く細い通路を見た。水を運ぶときに使った門が、その先にある。
「裏から出ましょう」
長谷川さんは袋を肩へ掛けた。
俺たちが帰ってきたとき、結衣のそばに父親がいる。
さっき思い浮かべたその光景を、今度は必ず実現させたかった。
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