第30話 戻らなかった人
朝、廊下を歩いていると、昇降口で靴紐を結んでいる平田さんに会った。
足元には青いリュックが置かれていた。脇のポケットへ眼鏡のケースを押し込み、立ち上がる。正門では神谷さんが、門を塞いでいた机を動かしていた。
「もう出るんですか」
「人が動き始める前の方が、道が空いてるからね」
平田さんはリュックを背負い、肩紐を引いた。
昨日、米を持ち帰った家へ行くのだ。住んでいた夫婦が戻っていれば、物資のことを話すと言っていた。
「2人だけで大丈夫ですか」
「大勢で行ったら、向こうも怖いだろう。俺は1度話してるから」
廊下の向こうから、長谷川さんが来た。手に水の容器を持っている。
「平田さん、眼鏡」
「ああ、ありがとう」
平田さんは掛けていた眼鏡を外し、レンズについた指の跡を拭いた。長谷川さんが差し出した布を使い、明るい方へかざして確かめる。
「朝のうちには戻ります?」
「昼までには。そしたら、水運びの続きをやるよ」
布を返した平田さんは、俺たちに手を上げた。
神谷さんが門の隙間から外を確かめ、先に出る。平田さんもそのあとに続いた。
門が閉まるまで見送ってから、長谷川さんは水の容器を持ち直した。
「無事に帰ってくるといいんですが」
俺は昨日、米袋に書かれていた名前を思い出した。
「話がつけばいいですね」
長谷川さんは頷き、蛇口のある校舎裏へ歩き出した。
*
午前中は、教室の窓に板を取りつける作業を手伝った。
全面を塞ぐのではなく、廊下から人の姿が見えにくくなる高さに合わせる。窓の下半分を隠せば、立っていても外から気づかれにくい。
美緒が板の端を押さえ、俺が紐を柱へ回した。
「もう少し下。そこだと、座った子の顔が見える」
言われた位置まで下げて結び直す。校庭側から確かめた男が、親指を立てた。
長谷川さんは別の窓を担当していた。手伝っていた男の子が紐を落とすと、先に拾わず、足元を指して教える。
「踏むと滑るから、こっちへ寄せよう」
男の子はしゃがんで紐を拾い、両手で差し出した。
「ありがとう。じゃあ、そっち持っててくれる?」
長谷川さんは受け取った紐の片側を渡した。男の子は張り切って腕を伸ばし、母親が見に来ると、板を指して何をしたのか説明していた。
昼の配膳が始まるころには、教室の窓が一通り隠れた。
平田さんは、まだ戻っていなかった。
*
神谷さんが帰ってきたのは、昼食の片づけが終わったあとだった。
正門を見ていた男が人を呼び、机をずらす。神谷さんは門を抜けると、その場で片膝をついた。
上着の袖が裂けていた。掌には擦り傷があり、土がこびりついている。
長谷川さんが駆け寄った。
「平田さんは?」
神谷さんは息を整え、門の外へ目を向けた。
「途中ではぐれた」
「どこでですか」
「線路の手前。道に何体も入ってきて、別の方へ逃げた」
佐伯さんが水を渡す。神谷さんは少し飲み、残りで掌の土を流した。
「戻って探したんですか」
「探した。呼んでも返事がなかった」
神谷さんは濡れた手をズボンで拭き、立ち上がった。
「長くはいられなかった。音を聞いて、また寄ってきたから」
俺は神谷さんの後ろを見た。
門の隙間には通りが見えるだけで、誰も続いてこなかった。
長谷川さんが、佐伯さんへ向き直る。
「何人かで、迎えに行けませんか」
「今は人を出せない。外を見て」
佐伯さんに促され、門の脇へ寄った。
昨日まで横倒しになっていた自転車のそばに、3体いた。うち1体がこちらを向き、ゆっくり近づいてくる。
「離れて」
門を見ていた男が板を戻す。隙間が塞がる直前、道路の向こうにも人影が見えた。
長谷川さんは門から退いたが、校舎へは戻ろうとしなかった。
「平田さん、学校へ戻る道はわかってますよね」
佐伯さんが神谷さんに尋ねる。
「わかってる。歩けるなら、戻ってくるはずだ」
「門は見ておこう。来たらすぐ入れられるように」
佐伯さんは見張りの男へ声をかけた。
長谷川さんはそこでようやく頷いた。
*
午後、俺は1人で街へ戻った。
用具室では、女性が備品の数を確かめていた。棚の手前へ新しい箱が増えていたが、奥の壁までは通れる。
空の箱を片づけ、女性が台車を取りに出た間に棚の裏へ入った。
自宅のリビングへ戻り、連絡端末でミナの家を呼び出す。結衣は公園から帰ったばかりだった。
「お兄ちゃん、いつ帰る?」
「まだ決まってないんだ。ごめんな」
「お姉ちゃんも?」
「うん。あとで、お姉ちゃんからも連絡する」
結衣は少し黙った。
電話の向こうで、引き出しを開ける音がする。
「絵、できたよ」
「帰ったら見せてくれる?」
「うん。折ったらあかんから、机に置いてる」
ミナの母親が代わり、食事も睡眠も問題ないと教えてくれた。ただ、昨日は眠る前に何度か俺たちの帰りを尋ねたらしい。
「今夜も連絡します」
礼を言って通話を終えた。
家の窓からは、庭の鉢が見えた。土が乾いていたので、水をやる。葉の上に溜まった水滴が、日差しを受けて光った。
平田さんが学校へ戻るには、あの通りを歩かなければならない。
俺はじょうろを置き、すぐに学校へ戻った。
*
夕食の列で、長谷川さんは平田さんの分も受け取ろうとした。
「戻ったら食べられるように、置いておきたいんです」
配膳の女性は鍋の中を見た。
「取っておくことはできますけど、冷めますよ」
「それでも。お願いします」
渡された器を、長谷川さんは両手で受け取った。
教室へ戻ると、窓際に平田さんの毛布が畳まれていた。脱いだ室内履きが、椅子の下に揃えてある。
長谷川さんは机の端を拭き、器を置いた。
「昨日、この人が結衣の話を聞いてくれたんです」
俺たちの方を見ずに言った。
「俺が迎えに行くって言ったら、袋を貸してくれて。子どもの荷物も入るから、大きい方を持っていけって」
長谷川さんの足元にある袋だった。
俺は向かいの椅子へ座った。
「門は、まだ見てもらってます」
「はい」
長谷川さんは頷き、自分の食事に箸をつけた。
食べ終わっても、窓際の器には手を触れなかった。
暗くなる前に、俺と美緒は正門の様子を見に行った。
見張りの男が板の隙間から外を覗いている。傍らには、音を出さずに机を動かすための布が敷いてあった。
「平田さん、来ましたか」
男は首を振った。
「誰も」
その返事を聞いて、教室へ戻った。
長谷川さんは廊下から聞こえる足音のたび、入口へ顔を向けた。水を運ぶ人、毛布を借りに来た人、見回りの佐伯さん。
平田さんではなかった。
消灯の時刻になり、美緒が俺の隣へ毛布を広げた。
長谷川さんは冷えた器へ布をかけ、平田さんの机に置き直した。
朝には戻るかもしれない。
そう言いかけたが、俺にはわからなかった。
廊下の灯りが消えてからも、長谷川さんは入口に近い場所へ座っていた。平田さんが帰ってきたら、すぐに気づける場所だった。
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