第29話 持ち主のいる食料
翌朝、顔を洗いに行くと、長谷川さんが廊下の窓を開けていた。
昨夜、結衣との通話は、俺と美緒が交代で街へ戻って済ませた。ミナと同じ部屋に布団を敷いてもらったらしく、結衣は寝る前まで話したがった。
父親が見つかったことは、まだ伝えていない。
「眠れました?」
長谷川さんが、窓の留め金を下ろしながら尋ねた。
「何度か起きましたけど」
「床、硬いですよね。俺も最初は腰が痛くて」
長谷川さんは腰へ手を当てた。昨日、車を押したせいもあるのだろう。
「今日は何をするんですか」
「水を運びます。校舎の反対側だけ、まだ出る蛇口があるんです。いつ止まるかわからないんで、容器が空いたら汲んでおこうって」
「俺も手伝います」
「助かります。朝ご飯のあとで行きましょう」
窓の外では、校庭の端を人影が歩いていた。
フェンスに沿って進んでいたが、こちらへ顔を向けると足を止めた。首を傾けたまま、窓へ近づいてくる。
「離れましょう。ゾンビが寄ってきます」
長谷川さんに促され、俺は窓から下がった。
「……ここでは、そう呼んでるんですか」
「ええ。ほかに、何て呼べばいいのか」
長谷川さんは窓を閉めた。外では、さっきの人影がフェンスに手を掛けていた。
窓を開けたのは、湿った毛布を乾かすためだった。廊下の椅子に広げた布から、冷たい水の匂いがした。
*
朝食は、小さなおにぎりと、薄い味噌汁だった。
配っている女性のそばには、紙を挟んだ板が置かれていた。受け取った人の名前に印をつけている。
長谷川さんは俺たちを列へ案内し、自分は後ろへ並んだ。
「一緒でいいですよ」
俺が言うと、前にいた男の子を指した。
「この子、お母さんの分も取りに来てるんで。運ぶのを手伝ってから」
男の子は昨日、水をこぼした子だった。両手で盆を持っているが、器を載せると傾いてしまう。
長谷川さんが片側を支えると、男の子は少し安心した顔で歩き出した。
俺と美緒は廊下の壁際に座った。
おにぎりを割ると、中に具は入っていなかった。米が温かい。それだけで、並んでいた人たちの表情が和らいでいた理由がわかった。
「昨日より大きいね」
隣の女性が、同行していた年配の男性に言った。
「米が来たんだろ。ありがたいな」
男性は落とした粒を指で拾い、口へ入れた。
街のスーパーには、米も野菜も並んでいる。俺たちが昨夜戻ったときも、いつもどおり店が開いていた。
ここへ少し持ってくるだけならできる。
そう考えて、手の中のおにぎりを見た。
昨日まで空腹に困っていなかった俺たちが、いきなり食料を出せば、どこにあったのか尋ねられる。1度渡して終わりにもできないだろう。
美緒は味噌汁の器を両手で持ったまま、配膳台を見ていた。俺と同じことを考えているのかもしれなかった。
*
水汲みは、思っていたより重労働だった。
校舎の裏にある蛇口から容器へ水を入れ、台車で給食室まで運ぶ。床の段差に車輪が引っかかるたび、長谷川さんと2人で持ち上げた。
3往復目に、白髪の男が空の容器を持ってきた。
「まだ出るか」
「今のところは」
長谷川さんが答えると、男は蛇口の下へ容器を置いた。
「昨日より勢いが弱いな」
眼鏡の奥で目を細め、流れる水を確かめている。
「平田さん、あとは俺たちがやりますよ」
「座ってばかりいると、余計に動けなくなる」
平田さんはそう言って、満杯になった容器を持ち上げた。長谷川さんが底へ手を添える。
「じゃあ、一緒に」
「若い人に半分持ってもらったら、運動にならんな」
「腰を痛めるよりいいです」
2人のやり取りに、俺も笑った。
平田さんは容器を台車に載せてから、俺へ顔を向けた。
「昨日来た人だね」
「相沢です」
「平田だ。長谷川さん、娘さんが見つかったんだって?」
長谷川さんが、少し照れたように頷いた。
「この2人が助けてくれたんです」
「よかったなあ」
平田さんは長谷川さんの肩を軽く叩いた。
「ちゃんと迎えに行ってこいよ」
「はい。道の様子を見てから」
長谷川さんの返事に、平田さんは頷いた。
台車を押して校舎へ戻る途中、平田さんが壁際のバケツに足をぶつけた。空のバケツが転がり、俺は慌てて押さえた。
「すまん。足元が見えにくくてね」
平田さんは眼鏡を外し、レンズを服で拭いた。掛け直す前に、長谷川さんがバケツを脇へ寄せる。
「これがないと、本当に何も見えん」
「階段では外さないでくださいよ」
「わかってるよ」
平田さんは眼鏡を掛け、手すりのある方へ回った。
*
昼前、軽トラックが戻ってきた。
荷台の段ボールを見て、昇降口にいた人たちが立ち上がる。俺たちも水の台車を端へ寄せ、荷下ろしを手伝った。
乾麺、缶詰、袋入りの菓子。箱を開けるたび、そばにいた女性が数を紙へ書き込んでいく。
「これ、子どもたちに出せるね」
菓子の袋を持った女性が笑った。
長谷川さんも荷台から箱を受け取った。その向こうで、平田さんが青いリュックを背負って立っていた。脇のポケットには、眼鏡のケースが差し込まれている。
平田さんは、荷台から下ろされた米袋を見つめていた。
「神谷さん」
校舎へ向かいかけた神谷さんが振り返る。
「あの家の人は、どうした」
周囲の声が少し静かになった。
「家?」
「昨日、俺が話した家だよ。夫婦で住んでる。米はまだ残ってると言ったが、分ける余裕はないとも言っていた」
神谷さんは米袋を見てから、平田さんへ向き直った。
「今日は誰も出てこなかった」
「呼んだのか」
「呼んだ。返事がなかった」
「鍵は」
神谷さんは答えなかった。
代わりに、箱を抱えた男へ、先に運べと手を振った。
平田さんがその前へ出た。
「中に人がいたかもしれんだろう」
「確認してる。いなかった」
「昨日まで住んでた家だ。勝手に持ってきていいことにはならん」
菓子の袋を持っていた女性が、そっと袋を箱へ戻した。
神谷さんは声を低くした。
「じゃあ、ここの飯はどうする」
「だから、奪っていいと言うのか」
「奪ってない。誰もいない家に残ってた物を運んできた。それを食わずに、ここで腹を空かせて待つのか」
俺は抱えていた箱を下ろした。
どちらの説明が正しいのか、俺にはわからなかった。ただ、平田さんはあの家の人と話している。昨日まで、確かに暮らしていた人がいたのだ。
佐伯さんが昇降口から出てきた。
「何の話?」
神谷さんが短く説明すると、佐伯さんは平田さんのそばへ寄った。
「場所を教えて。次に出るとき、もう1度確かめよう」
「次じゃ遅いかもしれん」
「今は荷物を中へ入れさせて。門を開けてから、ずいぶん時間が経ってる」
佐伯さんが通りを指した。
フェンスの外で、人影がこちらへ向きを変えていた。
平田さんは口を閉じ、道を空けた。俺たちも荷物を抱え直して校舎へ入った。
*
給食室の前で、長谷川さんが米袋を床へ置いた。
「俺、昨日も見たんです」
周囲に人がいないのを確かめてから、声を落とす。
「回収に行った人が、家の鍵を壊す道具を持ってました。人がいない家を探してるって聞いて、そういうものかと思ってたんですが」
美緒が長谷川さんを見た。
「平田さんは、前から反対してたんですか」
「店を探した方がいいって、何度か。家には帰ってくる人がいるかもしれないからって」
長谷川さんは米袋の口を見た。
結び目の近くに、黒い字で名前が書かれている。
「……結衣と妻にも、家で待つように言ったんです。迎えに行くから、知らない人には開けるなって」
その言葉のあと、長谷川さんは黙った。
俺は袋を持ち上げ、給食室へ運んだ。女性に受け取ってもらい、廊下へ戻る。
長谷川さんは、まだ同じ場所に立っていた。
「帰る準備は、しておいてください」
俺が言うと、長谷川さんは顔を上げた。
「道が通れそうですか」
「まだ確認できてません。でも、動けるときにすぐ出られるように」
「わかりました」
返事は早かった。
教室へ戻る途中、平田さんが受付の机で地図を広げていた。
神谷さんと佐伯さんが、その両側に立っている。
「この道を入って、3軒目だ」
平田さんが指で場所を示した。
佐伯さんは地図へ印をつけ、神谷さんを見た。
「明日、案内してもらって確かめてきて」
神谷さんは少し間を置いて頷いた。
「朝なら、道もまだ通れる」
平田さんは眼鏡を押し上げた。
「俺も行く。あの人たちが戻ってたら、ちゃんと話す」
長谷川さんが足を止めた。
「気をつけてくださいね」
「そっちも。娘さん、待ってるんだろ」
平田さんは笑い、地図を折り畳んだ。
その横で、神谷さんは黙って回収用の袋を手に取った。
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