第28話 娘に会うまで
南側の車を動かし終えた長谷川さんが、校舎へ戻ってきた。額の汗を袖で拭き、俺たちを見つけると歩調を速める。
「お待たせしました。放送室、使っていいそうです」
廊下の奥にある小さな部屋へ入った。机の上には古い放送機器が並び、窓際には丸めた延長コードが置かれている。長谷川さんは椅子を3脚寄せたが、自分は座らずに尋ねた。
「結衣のところまで、どれくらいかかりますか」
俺は美緒と顔を見合わせた。
ここまでなら、歩いて来られた。けれど、結衣が暮らしている場所までの道順を、そのまま教えることはできない。
「まず、外の様子を確認させてください。来たときから変わってるかもしれないので」
「俺も行きます」
「いえ。確認だけなら、俺たちで」
長谷川さんは口を閉じた。少しして、椅子へ腰を下ろす。
「……そうですね。俺が道を知ってるわけでもないですし」
膝に置いた袋の持ち手を、両手で握っていた。
「ここへ戻ってこられたのも、運がよかっただけなんです。途中で道を間違えて、車の下に隠れて。携帯も、そこで落としました」
その手の甲には、薄くかさぶたができていた。
「結衣が安全なところにいるなら、俺が余計なことをして、危なくしちゃいけませんね」
俺は頷いたが、胸の内は軽くならなかった。
壁に出入口を登録できれば、危険な道を歩かずに帰れる。
問題は、それを長谷川さんに話していいのか、まだ判断できないことだった。
結衣の父親だということはわかっている。娘の無事を知って泣いた姿も見た。それでも、街へ迎えるということは、これから結衣や美緒と同じ場所で暮らしてもらうということだ。
早く会わせてやりたい。
そう思う一方で、会って間もない相手に、俺たちの暮らしをすべて預ける決心はつかなかった。
*
正門へ行くと、神谷さんが外から戻ってきたところだった。門の隙間を通り、後ろに続いた若い男と一緒に机を押し戻す。
「西は駄目だ。火事の方へ集まってる」
佐伯さんに報告したあと、俺たちにも目を向けた。
「帰るなら北へ回ることになる。ただ、あっちはまだ見てない。今日はやめといた方がいい」
門の外から、金属を擦るような音が聞こえた。
通りの向こうに止まったバスの脇を、人影が歩いている。首が横へ傾き、片足を引きずっていた。その後ろにも2体いた。
若い男が、門に立てかけた板を少しずらした。外の景色が隠れる。
「寝る場所はありますよ」
佐伯さんが言った。
「長谷川さんと同じ教室でよければ。道が落ち着いてから出た方がいい」
「少し、相談してもいいですか」
「もちろん。決まったら受付に声をかけて」
俺と美緒は校舎の裏へ回った。給食室の搬入口には台車が並び、誰もいない。
「結衣には、まだ言わない方がいいと思う」
俺が言うと、美緒は頷いた。
「お父さんが見つかったことだよね。」
「ああ。連れて帰れるって決まってから伝えたい」
結衣は、俺たちが戻るのを待っている。父親が来ると知れば、玄関から離れなくなるかもしれない。
もし俺たちの判断で会わせられなくなったら、どう説明すればいいのか。
「長谷川さんのことも、もう少し知りたい」
「私も。結衣のお父さんだからこそ、ちゃんと話したい」
美緒は搬入口の向こうを見た。窓の内側で、女性が大きな鍋を洗っている。
「ここで暮らしてる人たちのことも。今のところ、助け合ってるように見えるけど」
「数日、見てみるか」
「その前に、結衣のところへ戻ろう。お昼までって言ってある」
俺は時計を見た。
約束の時間が近づいていた。
*
受付で手伝えることを尋ねると、用具室の整理を頼まれた。
運び込まれた物資を置くため、古い椅子や清掃道具を片側へ寄せたいらしい。担当の女性に言われたとおり、俺たちは積まれた椅子を動かした。
部屋の奥には背の高い棚があり、その裏に細い空間が残っていた。窓は手前側にしかない。入口からも、棚の陰は見えなかった。
美緒が箒を持って女性に声をかけた。
「廊下の段ボールも、こっちへ運びます?」
「お願い。空いたところに重ねてくれる?」
2人が外へ出たところで、俺は棚の裏へ入った。
壁に手を置き、管理画面を開く。
登録済みの出入口は3つ。俺の部屋、美緒の部屋、それからホームセンター近くの川沿いの壁だ。
俺の部屋には、壊された玄関の扉が残っている。誰でも入り込めるあの部屋へ、帰るつもりはなかった。
その登録を解除し、目の前の壁を新しい接続先に指定した。
作業の途中で足音が近づくたび、手を止めて箒を動かした。棚の脚に絡んだ埃を取り、椅子を寄せ直す。廊下から、美緒と女性が箱の置き方を相談する声が聞こえた。
数分後、壁に小さな窓が現れた。
見慣れた自宅のリビングが、その向こうにある。
俺は廊下の様子を確かめてから、美緒を呼んだ。
「できた。結衣のところへ行ってくる」
「うん。こっちは私がやっとく」
棚の裏で《街に入る》を押すと、足元が家の床に変わった。
壁時計の音が聞こえる。窓の外を車が通り過ぎ、遠くで犬が吠えた。
俺はすぐに街の連絡端末を取った。
*
ミナの家へ行くと、結衣は居間の床で絵を描いていた。
俺に気づくと立ち上がり、靴下のまま玄関まで走ってくる。
「お兄ちゃん。お姉ちゃんは?」
「まだ外。結衣に話があって、先に戻ってきた」
結衣は俺の後ろを見たあと、顔を上げた。
俺はしゃがんで目の高さを合わせた。
「外の用事が長くなりそうなんだ。数日、帰れないかもしれない」
「今日も?」
「うん。ごめんな。お昼に迎えに来るって言ったのに」
結衣は黙って、俺の袖をつまんだ。
ミナの母親がそばへ来て、結衣の肩に手を置く。
「うちに泊まっていいのよ。ミナも喜ぶから」
「着替えと、寝るときに使っているものを持ってきます。お願いできますか」
「ええ。必要なものがあったら、こちらから連絡します」
結衣は居間を振り返った。ミナが色鉛筆を持ったまま、こちらを見ている。
「お姉ちゃんと、お話できる?」
「様子を見て、出来そうならまた来る。」
結衣が、落胆するのがわかる。
「ごめんな。出来るだけ早く戻るから。」
「じゃあ、絵、できるまで置いとく」
「何を描いてるんだ?」
「まだ見たらだめ」
結衣は両手で紙を隠した。
俺は笑って立ち上がった。父親のことを口にしないまま、着替えを取りに家へ戻った。
*
学校へ戻ると、用具室には誰もいなかった。
棚の裏から出て廊下へ向かうと、美緒が空の箱を抱えて歩いてきた。
「お願いできた?」
「ああ。泊めてもらえる。機会があれば、結衣に顔を見せてやってくれ。」
「わかった」
受付に滞在を伝え、長谷川さんのいる教室へ行った。
窓際には畳んだ毛布が並んでいた。長谷川さんは俺たちを見ると腰を上げたが、泊まると聞いて、袋を机の脇へ下ろした。
「さっきも外を見たのですが、私も賛成です。今は外は危ない」
長谷川さんは、空いている場所を指した。
「ここ、使ってください。窓の近くは夜に冷えるので、こっちの方がいいです」
そのとき、隣の机で水の容器が倒れた。
小さな男の子が固まっている。水は机から垂れ、床に敷いた毛布へ染み込み始めていた。
長谷川さんはすぐに毛布を持ち上げた。
「大丈夫。こっちはまだ濡れてない」
母親らしい女性が謝ると、長谷川さんは自分のタオルを床へ押し当てた。
「乾かせますから。それより、服にかかってませんか」
男の子は首を振った。長谷川さんは容器を起こし、蓋が緩んでいたのを締め直す。
片づけが終わるころ、廊下から食事の呼びかけが聞こえた。
「器、持っていきますか」
長谷川さんが、俺たちに尋ねる。
その手には、小さな男の子の分も重ねてあった。
俺は2枚受け取り、美緒と一緒に教室を出た。
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