第27話 あの子が、生きててくれた
長谷川さんは、結衣の絵を膝へ置いたまま、しばらく顔を上げられなかった。
眼鏡を外し、袖で目元を拭く。佐伯が校舎から椅子を持ってくると、何度も頷きながら立ち上がった。
「座ろう。ここだと人も通るから」
俺たちは昇降口の脇へ移った。
長谷川さんは椅子へ座っても、絵を手放さなかった。噴水の前に描かれた子供たちを見て、その中の1人へ指を添える。
「これが、結衣ですね」
「はい。隣の子とは、昨日友達になりました」
美緒が答えた。
長谷川さんが息を吐いた。
「遊べてるんだな」
俺は鞄から、もう1枚の絵を出した。
「こっちも、預かってきました」
眼鏡をかけた男の顔だった。口元には、ひげを表す線が何本もある。
長谷川さんは受け取り、少し笑った。
「ひげ、描かれてる」
「休みの日は剃らないって、教えてくれました」
「よく見てるな。あいつ」
彼は2枚を並べた。それから、俺たちへ顔を向ける。
「今、ちゃんと食べてますか」
「はい。食べられています。昨夜も眠れました」
美緒が言うと、彼は頷いた。
詳しい食事や、暮らしている場所のことは話さなかった。校庭には人がいて、俺たちのすぐ後ろも何人か通っていた。
「結衣は、どこで見つけたんですか」
俺は美緒を見た。
母親のことを、話さなければならなかった。
*
美緒の部屋へ荷物を取りに行った日に、母親と子供らしい住人が上の階へ帰ってきたことを話した。
その後、しばらく外出を避けていたこと。連絡のために部屋へ戻ったとき、結衣の声を聞いたこと。
長谷川さんは黙って聞いていた。
「結衣ちゃんは、寝室に隠れていました」
美緒が言った。
「お母さんに、鍵を掛けて、呼ばれても開けないよう言われたそうです」
長谷川さんの指が、絵の上で止まった。
「玄関から入ろうとしたんですが、鍵が掛かっていました」
俺が続けた。
「中から扉へ何度もぶつかる音がして、声をかけても返事はありませんでした」
「妻は、腕を怪我していましたか」
「結衣が、そう言っていました」
彼は目を閉じた。
「最後の電話で、妻が言ってたんです。買い物の帰りに、知らない人に噛まれたって」
美緒が膝の上で手を握った。
「病院へ行ってくれって言った。でも、電話もつながらないし、結衣を置いて外へ出られないって」
長谷川さんは絵へ目を落とした。
「俺が帰るまで、家にいるって」
校庭を台車が通った。
俺は何も言えず、車輪の音を聞いていた。
「結衣ちゃんは、言われたとおりにしていました」
美緒が静かに続けた。
「部屋の鍵を掛けて、待っていました。寝室の窓からベランダへ出られたので、そこから助けました」
「妻を、見たんですか」
俺は首を振った。
「姿は見ていません。ただ、結衣が呼んでも返事はなくて、扉を押す音が続いていました」
長谷川さんは両手を膝へ置いた。
やがて、俺たちへ頭を下げた。
「娘を助けてくださって、ありがとうございます」
「顔、上げてください」
俺が言っても、彼はすぐには上げなかった。
美緒が風にめくれた絵を押さえた。長谷川さんはその手を見てから、ようやく体を起こした。
*
俺はスマートフォンを取り出した。
「結衣の写真もあります」
長谷川さんが頷いた。
顔がよく見えるものを選んだ。広場でボールを抱え、こちらへ笑っている写真だ。背景には石畳と木が少し映っている。
彼は画面へ顔を近づけた。
「少し、持ってもいいですか」
「どうぞ」
両手で受け取った長谷川さんは、写真を大きくした。
結衣の頬へ、指が触れる。
「……あの子が、生きててくれた」
眼鏡を外し、目元へ手を当てた。
「もう、会えないかと思ってました」
俺は美緒と顔を見合わせた。
「結衣ちゃんも、お父さんを待っています」
美緒が言うと、長谷川さんは目元を拭き、何度も頷いた。
佐伯が水のカップを持ってきた。
彼はスマートフォンを俺へ返し、カップを受け取った。少し飲んでから、佐伯へ向き直る。
「俺、娘に会いに行きます」
「そうだね。会ってきなよ」
佐伯が答えた。
長谷川さんは俺たちを見た。
「連れていってもらえませんか。荷物はすぐまとめられます」
俺は頷いた。
「一緒に帰りましょう」
美緒も隣で頷いた。
長谷川さんは立ち上がり、絵を胸へ持って校舎へ入った。
俺はその背中を見送った。
結衣へ父親が見つかったと伝える。そのときには、本人も隣にいてほしかった。
*
帰る道を確かめていると、校門の方で声が上がった。
「閉めて!」
男が2人、校庭へ走り込んできた。
1人が袋を担ぎ、もう1人は腕を押さえている。神谷が近づき、持っていた工具を下ろした。
「どっちから来た?」
「西。商店街から来てる」
袋を下ろした男が息を切らして答えた。
「大通りで事故。車が燃えてる。あっちの道へ、みんな寄ってる」
神谷は腕を押さえた男を見た。
「そこ、どうした」
「転んだ。縁石で擦っただけ」
神谷が袖を上げさせ、傷を確かめた。その間に、校門の内側へ停めていた車が動かされた。
俺は地図を見た。
西側の商店街を抜け、その先で住宅街へ入る。戻るつもりだった道だ。
門の隙間を、人影が横切った。
少しして、もう1人。その後ろにも続いている。
神谷が手を上げた。
「声、落として。みんな中へ」
子供を連れた女の人が校舎へ向かった。作業をしていた人たちも、道具を置いて建物の陰へ移る。
長谷川さんが、小さな袋を持って戻ってきた。
「何かあったんですか」
佐伯が事情を伝えた。
長谷川さんは門へ近づきかけたが、神谷に止められた。
「今は出ないで」
「北の道なら?」
「そっちも見てくる。少し待って」
俺は美緒を見た。
彼女も帰り道を記した紙へ目を落としていた。街への出口は、今いる学校にはない。
「校舎で休んでて」
佐伯が言った。
「通れそうな道がわかったら知らせるから」
俺たちは、いったん中へ入った。
*
案内された教室には、毛布と荷物が並んでいた。
扉の近くで靴を脱いでいる人がいる。窓際では、女の人が子供の服を畳んでいた。
俺たちのために椅子が3脚出された。
佐伯が別の男へ声をかける。
「この2人、長谷川さんの娘を助けてくれた人。少し待っててもらう」
「わかりました」
男は名簿らしい紙を持ち、入口の机へ座った。
俺は美緒と廊下へ出た。
「登録すれば、帰れる」
声を抑えて言うと、美緒が頷いた。
「どこにつける?」
「人が来ないところを探したい」
廊下には、次々と人が通っていた。階段のそばには見張りが立ち、校舎裏へ続く扉の前でも、荷物を受け渡している。
窓も教室の入口も多い。壁の前から3人が消えれば、誰かに見られる。
長谷川さんを連れていくなら、彼にも説明しなければならなかった。
俺は廊下の奥を見た。
「まず、ここに来た人たちへ話していいか、考えないと」
「街のことは、まだ言わない方がいいと思う」
美緒が答えた。
「長谷川さんとは、2人きりで話せるところ探そう」
俺は頷いた。
教室へ戻ると、長谷川さんが財布から写真を抜いていた。
「これ、結衣に渡したかったんです」
砂浜に、結衣と母親が立っていた。後ろには古い船がある。
「この日の話、聞きました」
俺が言うと、彼が顔を上げた。
「靴に砂が入ったって」
「結衣が、妻の靴へ入れたんですよ。自分の靴を振ったら、ちょうど横にあって」
美緒が少し笑った。
「そこまでは言ってなかったです」
「怒られたところは、言わないんだな」
長谷川さんは写真を見てから、俺へ差し出した。
「絵と一緒に入れてもらえますか。財布だと、端が折れてしまうから」
俺はケースを開いた。
受け取った写真を入れる間、入口の男がこちらを見た。
「娘さん、今はどこにいるんです?」
長谷川さんが俺たちへ顔を向ける。
俺はケースを閉じた。
「知り合いに預かってもらっています」
「子供を見られるくらい、人がいるんですね」
「今日はお願いできたので」
男は頷き、手元の紙へ目を戻した。
美緒が俺の隣へ座った。
鞄へケースをしまいながら、俺はさっきの廊下を思い返した。出口はつくれる。けれど、つくるところも、使うところも、見られずに済む場所を探さなければならなかった。
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