第26話 その人を、知っている
結衣は出かける前に、俺の鞄を見た。
「絵、入ってる?」
「入ってるよ」
ケースを少し出して見せると、彼女は頷いた。
広場では、ミナとその母親が待っていた。美緒が昨日頼んだことをもう1度確かめ、結衣の水筒を渡す。
「昼までに戻るつもりです。もし遅れたら、この端末へ連絡します」
街の中で使う連絡先を交換していた。現実へ出れば受け取れないが、帰還したらすぐ確認できる。
ミナの母親は、結衣の方へ屈んだ。
「お昼、うちで食べていく? ミナとパンを焼くつもりなの」
結衣は美緒を見た。
「いいよ。お兄ちゃんと迎えに来るからね」
「うん」
結衣はミナの隣へ行き、並んで歩き出した。途中で振り返ったので、俺と美緒は手を上げた。
2人の姿がパン屋の陰へ入ってから、美緒が俺を見た。
「行こう」
俺は頷いた。
*
美緒の部屋から見える道には、昨日の車が残っていた。
室内と廊下の音を確かめ、現実へ出る。今日も、親への電話はつながらなかった。
俺はスマートフォンをしまい、紙の地図を出した。
「学校まで、無理に行かない。道が塞がってたら戻ろう」
「うん。別々になったら、ここに戻る」
美緒が自分の部屋を指した。
途中で合流する場所も決めていた。アパートへ戻る道を塞がれた場合は、1つ手前の小さな駐車場。そこで待つ時間を過ぎたら、相手を捜して歩き回らず、それぞれ戻れる経路を選ぶ。
美緒が鞄の紐を短くした。
俺は覗き穴から廊下を見た。
誰もいない。扉を少し開け、階段の下を確かめる。
2人で外へ出て、鍵を掛けた。
久しぶりに歩く廊下には、前に見た衣類がまだ落ちていた。避けて階段を下りると、入口のガラスに新しいヒビがあった。
美緒が立ち止まり、道路を見た。
人影は、通りの向こうに1つあった。こちらへ背を向け、車の窓へ手をついている。
俺たちは反対へ歩いた。
*
学校へ向かう大通りは使わず、住宅街を進んだ。
美緒が知っている道だった。曲がる前には2人とも止まり、次の通りを見た。
開いた玄関から、椅子が出ていた。
その家の前で、小さな音がした。
俺は美緒へ手を出して止めた。
庭の陰に、人が屈んでいる。頭を下げ、両手を動かしていた。
顔を上げたとき、口元が見えた。
美緒の手が俺の袖へ触れた。
俺たちは来た道へ下がり、別の角を曲がった。家の庭を抜ければ近かったが、塀の内側へ入る気にはなれなかった。
地図の端に、通れなかった場所を書いた。
予定より時間がかかっていた。
「次の通りまで行って、駄目なら戻ろう」
俺が言うと、美緒が頷いた。
角の先で、台車の音がした。
壁へ寄り、道を覗く。
男が2人、店から出てきた。袋を台車へ載せ、1人が周囲を見ている。
白いテープを貼ったリュックがあった。
昨日見た若い男だった。
「桜川の人たちだ」
俺が小さく言った。
美緒も見た。
「今なら、話せる?」
道の両端を確かめる。
近くに感染者の姿はなかった。相手は店の前で荷物を結び直している。
俺は壁の陰から出た。
「すみません」
見張りの男がすぐにこちらを向いた。
手に持った長い工具が、少し上がる。
「止まって」
俺は足を止め、両手を見える位置へ出した。美緒も俺の隣で止まる。
台車の男が荷物から手を離した。
店の中から、もう1人出てきた。
昨日先頭を歩いていた男だった。俺と美緒の鞄へ目を向け、それから背後の道を見た。
「ほかに誰かいる?」
「いません。2人です」
「どこから来た」
美緒がアパートのある方向を示した。
「この先の建物です」
男はすぐには近づかなかった。
工具を持った男が、俺たちの後ろへ視線を動かす。警戒しているのは、俺たちだけではなかった。
「何の用?」
「桜川小学校から来た人たちですか」
若い男が先頭の男を見た。
男は少し間を置き、頷いた。
「そうだけど」
「人を探しています。そこにいるか、聞きたくて」
*
名前を言う前に、男が店の入口を指した。
「道路の真ん中はやめよう。そこへ」
俺たちは入口脇へ寄った。
店の中までは入らなかった。相手も無理には勧めず、道から見えにくい位置に立つ。
「相沢直人です。こっちは三崎美緒」
「佐伯。学校で暮らしてる」
男が答えた。
工具を持った男は、話に入らなかった。少し離れたところで、交差点を見ている。
「佐伯さん、ここは早めに出たい」
「ああ」
佐伯は俺へ向き直った。
「名前は?」
「長谷川修司さんです」
若い男が顔を上げた。
「長谷川さん?」
俺はその反応を見て、言葉を続けた。
「眼鏡をかけています。会社から帰れなくなって、学校へ入ったと聞きました」
鞄を開けようとすると、佐伯が手を上げた。
俺は止まった。
「絵があります。娘さんが描いたものです」
「ゆっくり出して」
俺はケースを取った。
父親の顔を描いた紙だけを出し、相手へ向ける。
若い男が近づきかけ、佐伯の横で止まった。
「これ、長谷川さんだと思う。眼鏡、そんな形だった」
佐伯も絵を見た。
俺の喉が詰まった。
「今も、いますか」
佐伯が頷いた。
「いるよ。今朝も学校にいた」
美緒が俺の腕を掴んだ。
俺は絵を持ったまま、もう1度聞いた。
「無事なんですね」
「少なくとも、出る前には普通に話してた」
俺は息を吐いた。
美緒の手にも、さっきより力が入っていた。
*
「娘さんは?」
佐伯が聞いた。
俺は美緒を見た。
彼女が小さく頷く。
「無事です。今、俺たちが預かっています」
若い男が驚いた顔をした。
「長谷川さん、毎日捜しに行きたいって言ってたよ」
「それで、学校にいるか確かめに来ました」
佐伯が絵を俺へ返した。
道を見て、見張りの男へ声をかける。
「神谷、戻る道は?」
「さっきの方。表は車が詰まってる」
神谷という男が、俺たちを見た。
「歩ける?」
「はい」
「ついてくるなら、勝手に止まらないで。話は学校で」
俺は地図へ目を落とした。
学校まで行けば、父親に会える。けれど、相手を知ったわけではなかった。
「俺たち、場所を伝えてきてないんです。戻る時刻も決めています」
佐伯は急かさなかった。
「じゃあ、今日は伝言だけでもいい。本人には話しておく」
美緒が俺の隣へ寄った。
「直人、どうする?」
俺は時計を見た。
約束の時刻まで、まだ余裕があった。学校の位置は地図で確かめている。戻る道も、紙に残していた。
ここで帰れば、また同じ道を来る必要がある。
「話だけ、させてもらおう。長くは滞在しない」
美緒が頷いた。
俺は佐伯へ顔を上げた。
「お願いします。会わせてください」
*
神谷は、歩く速さを変えなかった。
荷物を持った若い男が前を進み、俺たちと佐伯が続く。神谷は最後尾にいたが、角へ来ると先へ回り、通りを確かめた。
途中で俺が大通りの方を見たとき、短く声をかけられた。
「そっちは行かない」
車の間に、何人もの人影があった。
1人がこちらへ顔を向けたが、俺たちは建物の陰へ入った。
学校の塀が見えた。
校門の内側に車が並び、その隙間に人が立っている。佐伯が近づくと、1人が車を少し動かした。
台車から先に中へ入る。
門のそばで、俺たちは手や服に傷がないか聞かれた。昨日のはしごで掌に赤みは残っていたが、噛まれたことはないと伝えた。
美緒も袖を上げ、確認してもらった。
校庭には洗濯物が干してあった。
水の入った容器を運ぶ人がいる。校舎の入口には椅子が並び、座った老人へ女の人が器を渡していた。
遠くから、子供の声が聞こえた。
俺は美緒を見た。
彼女も校庭を見回していた。
まだ、こうして暮らしている人たちがいた。
「ここで待ってて」
佐伯が昇降口の脇を指した。
若い男が校舎へ走っていく。
神谷は俺たちの近くに残った。工具を下ろし、門の方へ目を向けている。
俺はケースを胸へ持った。
美緒が隣で、小さく息を吐いた。
「伝えられるね」
「ああ」
校舎の中から足音がした。
階段を下り、廊下を走ってくる。
男が入口へ現れた。
眼鏡をかけ、頬に伸びたひげがある。結衣の絵より痩せていたが、顔の形はよく似ていた。
「娘を知ってるって……」
男は俺たちの前で止まった。
俺はケースから絵を出した。
長谷川さんが紙を見た。
手が伸び、途中で止まる。
「結衣です」
俺は言った。
「無事です。ご飯も食べています。今は、俺たちと一緒にいます」
長谷川さんは絵を受け取った。
噴水の前で遊ぶ子供たちと、ベンチの2人。描き足された眼鏡の男を、指で確かめる。
紙が少し揺れた。
「結衣が、これを?」
「はい。ここで待ってるって、伝えてほしいと」
長谷川さんはその場へしゃがみ込んだ。
片手で顔を覆い、もう片方の手は、絵の端を握らないよう広げていた。
俺も腰を落とした。
「会いに来ました。結衣のお父さんを、捜していました」
長谷川さんが何度も頷いた。
美緒が俺の隣へしゃがみ、折れかけた紙の端をそっと支えた。
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