第25話 お父さんは、学校にいる
結衣は、描き終えた紙を裏返してから、もう1度表へ戻した。
朝食のあと、美緒と向かい合って絵を描いていた。昨日、広場で遊んだ子供たちだという。俺は洗った皿を棚へ戻しながら、2人の話を聞いていた。
「これがミナちゃん?」
美緒が聞いた。
「うん。こっちは弟。6歳の子」
「弟だったんだ」
「昨日、教えてくれた」
結衣が青い鉛筆を取る。
俺が食卓へ座ると、彼女は紙をこちらへ向けた。真ん中に噴水があり、周りに4人の子供がいる。端のベンチには、俺と美緒らしい2人も描かれていた。
「お兄ちゃん、ここ」
「ちゃんとパン持ってるな」
「ずっと食べてたから」
美緒が笑った。
結衣も笑い、紙を自分の前へ戻した。それから、何か思いついたように顔を上げる。
「お父さんも、ここに来られる?」
俺は結衣を見た。
美緒も鉛筆を置いた。
母親の話は聞いていた。でも、父親が今どこにいるのか、俺たちはまだ確かめていなかった。助けた直後に、あれもこれも聞く気にはなれなかった。
「お父さん、どこにいるか知ってる?」
美緒が聞いた。
「学校」
「結衣ちゃんの学校?」
「違う。仕事の近くの。電話で言ってた」
俺は机の端からノートを取った。
「いつ、電話したの?」
「お母さんが、してた。電車が動かないから、帰れないって」
結衣は絵へ目を落とした。
「学校で待つって。お母さん、地図見てた」
俺と美緒は顔を見合わせた。
感染が広がり、交通が止まり始めた頃だろう。仕事先から帰れなくなり、避難所へ入った人は大勢いたはずだった。
「学校の名前、覚えてる?」
俺が聞くと、結衣は鉛筆を持ったまま考えた。
「桜……桜川」
「桜川小学校?」
「うん。小学校」
俺は名前を書いた。
「お父さんの名前も、教えてくれるか」
「長谷川修司」
結衣がゆっくり言った。
俺は書いた文字を彼女へ見せた。漢字はわからないと言ったので、読み方も横に入れる。
「結衣ちゃんも、長谷川?」
美緒が聞く。
「うん」
美緒が頷き、結衣の髪へ触れた。
「教えてくれてありがとう。そこにいるか、調べてみよう」
「今、行く?」
結衣が椅子から腰を浮かせた。
俺は慌てずに首を振った。
「まず、場所を確かめる。外の道も、通れるかわからないから」
彼女は座り直した。
「お父さん、私がここにいるって知らないよね」
「ああ。会えたら、ちゃんと伝える」
俺が答えると、結衣は絵を見た。
「これ、持っていってくれる?」
美緒が紙の端をそっと持った。
「うん。預かっておこうか」
*
結衣が庭で花へ水をやっている間に、俺は地図を開いた。
以前ダウンロードした東京の地図は、現実のパソコンから持ってきてあった。検索すると、桜川小学校は美緒のアパートから歩いて40分ほどの場所にあった。
画面を美緒へ向ける。
「ここだと思う」
「知ってる。こっちの駅からバスで行くと、前を通る」
彼女が道を指した。
大通りを進み、線路を越える。普段なら難しい道ではなかった。
今は、その大通りを通れるかがわからない。
「歩くなら、裏の道も見ておいた方がいいね」
美緒が地図を拡大した。
「学校の北側にも門がある。こっちは住宅街から行ける」
俺は行きと帰りの道を別々に書いた。
美緒は結衣の方へ顔を向けた。
じょうろを置いた結衣が、鉢へしゃがみ込んでいた。葉についた水を指で触り、こちらへ手を振る。
美緒も振り返した。
「すぐ出かけるのは、やめよう」
「ああ。まず、まだ避難所として使われてるか知りたい」
「結衣ちゃんには、見つかったって言うまで、約束しないでおこうね」
俺は頷いた。
父親が学校へ入ったのは、もう何日も前のことだ。その後もそこにいるのか、別の場所へ移ったのか。名前と場所がわかっても、まだ会えるとは限らなかった。
*
昼前、俺だけ美緒の部屋へ出た。
室内を確認してから移動し、親への電話を試した。今日もつながらなかった。
スマートフォンの地図も開けない。俺は学校名を検索してみたが、画面は変わらなかった。
窓へ近づき、カーテンの隙間から外を見た。
通りには、いつもの放置車両がある。
その間を、4人が歩いていた。
最初は、感染者かと思った。
だが、先頭の男が手を上げると、後ろの3人も止まった。1人が車の陰から道の先を覗き、残りは建物へ背を寄せて待つ。
大きなリュックと、折り畳んだ台車を持っていた。
先頭の男が何か言った。
店の入口へ向かいかけていた若い男が戻る。4人は一緒に進まず、2人が店へ入り、2人が外へ残った。
俺はカーテンを少しだけ動かした。
直人の部屋へ押し入った連中とは、動きが違った。大声も出さず、別々の方向を見ている。
通りの端に人影が現れた。
外で待つ男がそれを見つけ、店の中へ合図する。
すぐに2人が出てきた。袋を台車へ載せ、来た方とは反対の道へ向かう。
最後の男が、台車から落ちかけたものを押さえた。
「桜川まで、このまま行ける?」
若い男の声が聞こえた。
前にいた男が、振り返らずに答える。
「大通りは使わない。裏から戻る」
俺は窓の前で動きを止めた。
4人は角を曲がり、見えなくなった。
学校名だけではなかった。
若い男のリュックに、白いテープが貼られていた。そこに黒い字で「桜川」と書かれていた。
*
街へ戻ると、美緒が台所から顔を出した。
「どうだった?」
「電話は駄目だった。でも、学校へ戻るらしい人たちを見た」
美緒が手を拭き、こちらへ来た。
俺は見た動きを話した。人数、持ち物、向かった道。学校名が書かれたリュックのことも伝える。
「まだ、人が集まってるんだね」
「たぶん。少なくとも、あの4人はそこへ戻るつもりだった」
美緒は地図の画面を見た。
「いきなり学校まで歩くより、その人たちに聞けたらいいね」
「ああ。ただ、声をかけるなら場所を選ばないと」
俺たちを助けてくれる人たちなのかは、まだわからない。
でも、学校へたどり着く道を知っている。そこにいる人の名前も、聞けるかもしれなかった。
結衣がリビングへ入ってきた。
「お父さん、わかった?」
美緒が彼女の前へしゃがんだ。
「学校に、今も人がいるみたい。お父さんがいるかは、まだ聞けてない」
「そっか」
結衣は俺のノートを見た。
「行くなら、これも」
小さな紙を差し出す。
父親の顔を描いた絵だった。短い髪に眼鏡をかけ、口元に線が何本もある。
「これ、ひげ?」
「うん。休みの日、剃らないから」
美緒が笑った。
結衣は絵へ指を置く。
「仕事の日は、ないよ。あと、眼鏡がないと、探す」
「眼鏡を?」
「うん。頭に載ってるときもある」
俺も笑った。
名前だけだった父親に、少しずつ顔がついた。
絵の裏へ、俺は長谷川修司と書いた。結衣にもう1度読み上げてもらい、間違いがないことを確かめる。
*
その日の夕方、俺と美緒は翌朝の準備をした。
水と、少量の食べ物。地図を紙にも写し、途中で戻る場所を決める。
学校まで必ず行くとは決めなかった。まず、美緒の部屋から周辺を確認する。探索に出ている人たちと、安全に話せる機会があるかを探す。
結衣を1人で残すことはできない。
美緒がパン屋へ連絡し、広場で顔を合わせたミナの母親に相談した。詳しい事情は話さず、俺たちが用事を済ませる間、結衣を一緒に遊ばせてもらえないかと聞く。
相手は引き受けてくれた。
明日の朝、直接会って、帰るまでそばにいてもらうことを確かめる。少しでも都合が合わなければ、外出は別の日にするつもりだった。
夜、結衣が寝る前に俺たちを呼んだ。
ベッドの上に、昼の絵がもう1枚置かれていた。
噴水の広場に、父親が描き足されている。
「お父さん、ボール投げるの上手だよ」
「そうなのか」
「私が変な方に投げても、取る」
結衣は絵を美緒へ渡した。
「お父さんに会ったら、ここで待ってるって言って」
美緒が両手で受け取った。
「うん。会えたら、伝える」
俺は2枚の絵を折らずに運べるよう、薄いケースを持ってきた。
結衣が自分で中へ入れる。
父親の名前をもう1度確かめてから、俺はケースを鞄へしまった。
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