第3話 助手席に、美緒がいる
俺が触れると、壁に管理画面が開いた。
美緒はすぐ隣に立っていたが、視線は俺の指先へ向いている。そこに表示されている《招待》の文字も、彼女には見えていないらしい。
「今、何か出てるの?」
「招待って項目がある」
「私を?」
「たぶん。ちょっと待って」
押すと、画面が切り替わった。
《招待する相手に、壁の接続位置へ触れてもらってください》
俺は美緒の手の高さを示した。
「そこに、もう1回手を置いてくれ」
「こう?」
美緒が掌を壁へ当てる。さっきと同じ、何もない壁に触れる動きだった。
表示に、彼女の名前が出た。
《三崎美緒》
《この人物を登録しますか?》
「名前が出てる」
「私の?」
「ああ。登録していいか?」
美緒は俺と壁を交互に見た。
「ここまで来て、駄目とは言わないよ」
俺は《登録》を押した。
美緒の手が止まった。
壁から顔を離し、目を細めてから、もう1度近づく。窓を覆っていた掌をゆっくり下ろした。
「……見える」
声が小さくなった。
窓の中では、海沿いの道路を車が走っていた。坂の上に俺の家があり、港の向こうには山が見える。
美緒は窓の縁へ指を添えた。街が拡大され、住宅街へ寄っていく。
「あ、ここ。直人の家」
「そう」
「隣の家、屋根の色変えた?」
「変えてない」
「夕方だからか。いつもより赤く見える」
彼女は窓の中を覗いたまま、市場通りへ視点を動かした。屋台の前に客が立っている。
「おじさん、いるね」
「さっき買ってきたところだ」
美緒が振り返った。机には、食べかけの焼き鳥が置いてある。
彼女はそれを見て、もう1度窓を見た。
「本当に、あそこから持ってきたんだ」
「だから、そう言ってるだろ」
「信じる方が難しいよ、こんなの」
それはそうだった。俺だって、昨夜この壁を見る前に同じ話をされたら、疲れているのかと思う。
美緒が窓に触れ直すと、《街に入る》の表示が出た。
「これを押したら行けるの?」
「ああ。着くのは俺の家のリビング。向こうの壁にも窓があって、そこから戻れる」
「直人も来てよ」
「もちろん。俺が先に行くから、靴を履いてきて」
美緒が玄関へ向かう。俺も靴を履き、《街に入る》を押した。
リビングに移ると、壁の窓の前を空けて待った。
数秒後、美緒がそこに立った。
肩に鞄を掛け、両手を少し広げている。床を見下ろしてから俺を見つけ、ほっとしたように腕を下ろした。
「着いた?」
「着いた」
彼女は足元を確かめ、ゆっくり顔を上げた。
ゲームで見ていた美緒ではなかった。
仕事帰りの服で、髪を耳へかけた、いつもの美緒が俺のリビングにいる。アパートでは何度か向かいに座ったことがあるのに、ここで顔を見ると、落ち着かなかった。
「戻るのは、これ?」
振り返った美緒が壁の窓に触れた。
「そう。《街を出る》を押す」
彼女の姿が消えた。
窓の向こうで、美緒がアパートの壁を見ている。机へ手をつき、部屋を確かめてから、またこちらへ戻ってきた。
「すぐ戻れるんだね」
「ああ」
「……ちょっと安心した」
美緒は鞄を椅子へ置き、ソファの前まで歩いた。背もたれを両手で押し、座面に触れる。
「これ、こんな生地だったんだ」
腰を下ろすと、体が沈んだ。
「あ、思ったより柔らかい」
「俺も、昨日そう思った」
彼女は靴を脱ぎ、床へ足をつけた。テーブルの下を覗き、窓の方へ顔を向ける。
「ここから海、見えるんだね」
ソファに座った位置から、庭の向こうに海が少し見えていた。
「椅子の向き、変えなくてよかった」
「お前が、テレビより窓に向けろって言ったんだろ」
「そうだっけ」
美緒は笑い、もう少し背もたれへ体を預けた。
俺も隣へ座った。窓の外から鳥の声が聞こえる。美緒は何か言いかけて、やめた。
しばらく、2人とも黙っていた。
街を見せたら、もっと騒ぐと思っていた。あちこち触っていた彼女が、今は膝の上で手を重ね、部屋をゆっくり見回している。
「私の街も、どこかにあったらいいのに」
俺は彼女を見た。
美緒は窓の外へ目を向けたままだった。
「帰ったら、壁、探してみる」
「ああ。俺も一緒に探すよ」
「うん」
彼女は頷き、立ち上がった。
「川、行ってみたい。時間ある?」
現実の時刻は、まだ19時前だった。
「ある。今日は、着いてすぐ終わらないからな」
*
ガレージのドアを開けると、美緒が俺の脇を抜けて車へ近づいた。
「大きいね」
「昨日、運転したらちょっと怖かった」
「傷つけないでよ。私も乗るんだから」
「俺の車だぞ」
美緒は助手席のドアを開けた。乗り込む前に屋根へ手を置き、シートに腰を下ろす。足を中へ入れてから、ドアを閉めた。
俺がエンジンをかけると、彼女は足元を見た。
「ちゃんと揺れる」
「シートベルト」
「あ、うん」
ベルトを締めるまで待って、車を出した。
住宅街の坂へ向かう。昨日も走った道だったが、今日は隣に人がいるので、曲がる前に少し早めに速度を落とした。
海が見えたところで、美緒が身を乗り出しかけ、ベルトに止められた。
「窓、開けていい?」
「いいよ」
助手席の窓が下がった。風が髪を持ち上げ、美緒が慌てて耳へかけ直す。
「潮の匂いする」
「だろ」
「昨日、ここ走ったの?」
「屋台へ行く途中で止まった」
「ずるい。先に見てる」
「誘う前に、確かめるだろ普通」
美緒は窓の外を見たまま笑った。
信号で停まると、横の歩道を犬を連れた人が通った。犬が車の方へ顔を向け、美緒が小さく手を振る。
その様子を見て、俺はようやく、彼女もここへ来たのだと実感した。
山へ向かう道の途中で、美緒が屋台の看板を見つけた。
「帰り、寄ろう」
「焼き鳥、残してきただろ」
「もう1本食べられるよ」
「辛い方?」
「今度は少なめで」
*
川沿いの道に入ると、舗装が途切れた。ゆっくり進んでも車体が揺れ、美緒がドアの取っ手へ手を添える。
「ゲームのとき、もっと飛ばしてなかった?」
「今は無理」
「うん。そのくらいでいい」
キャンプ場の入口で車を停め、2人で降りた。
川の音がした。
画面越しに聞いていたものより、低い音も混じっている。水際の石に流れが当たり、白く泡立っていた。
足元の砂利が鳴る。美緒は何歩か進んでから立ち止まった。
「あった」
川のそばに、緑色のテントが残っていた。
前には折り畳み椅子が2脚。その間の焚き火台には、黒くなった薪と灰がある。
美緒が歩く速度を上げた。俺も後を追い、テントのそばまで行った。
布には夕方の光が当たり、入口のファスナーが途中まで開いている。美緒は屈んで中を覗き、それから椅子へ手をかけた。
「そのままだね」
「ああ」
彼女が座り、俺も隣の椅子へ腰を下ろした。
川の向こうには、昨日と同じ木々が並んでいた。背もたれの布が背中を支え、靴底の下で小石が動く。風は少し冷たかった。
「これ、実際に座ると低いね」
「立つの、面倒になりそうだな」
「もう面倒」
美緒が足を伸ばした。
俺はスマートフォンを出し、時刻を確認してからポケットへ戻した。今日はまだ、帰る時間を選べる。
焚き火台の脇には、昨夜使い切らなかった薪があった。
「火、つける?」
「つけよう」
道具の箱を開けると、着火剤とライターが入っていた。薪を組もうとして手が止まる。ゲームでは設置すればよかったが、実際にはどう積めばいいのか、すぐにはわからなかった。
「下、空けないと空気入らないよ」
美緒が椅子から立った。
「やったことあるのか?」
「家族で何回か。直人は?」
「学校の行事で、大きいやつなら」
「それ、先生がつけたんじゃない?」
「たぶん」
彼女が細い薪を下へ置き、俺がその上に太いものを重ねた。着火剤に火をつけて離れると、しばらくして木の表面が黒くなった。
火が移ったのを見て、2人で椅子へ戻る。
煙がこちらへ流れてきた。美緒が咳をし、椅子を持ち上げる。俺も横へずらした。
「こっちまで再現しなくていいのに」
「風向きは、どうにもならないだろ」
並び直した椅子から、焚き火を眺めた。
火の近くに足を置くと、靴越しにも温かかった。美緒は両手を前へ出し、掌を火へ向けている。
「直人」
「ん?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
俺は薪の位置を見たまま頷いた。
「俺も、1人よりいいよ」
言ってから、もう少しましな返事があった気がした。美緒を見ると、彼女は笑っていた。
「明日も来ていい?」
「いいけど、まだ屋台しか案内してないぞ」
「だから来るんじゃん」
美緒は鞄からスマートフォンを取り出した。
「写真撮ろう。今度は、私たちで」
彼女の方へ椅子を寄せる。画面の中には、仕事帰りの美緒と、部屋着の俺がいた。間に焚き火が映っている。
美緒が腕を伸ばしたので、俺は少し顔を近づけた。
シャッターが鳴った。
「直人、顔硬い」
「急に撮るからだろ」
「じゃあ、もう1枚」
撮り直した写真を見て、今度は俺も笑った。
目をつぶっていたのは、俺の方だった。
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