第2話 壁の向こうで過ぎた夜
翌朝、目覚ましが鳴るより先に起きた。
壁の窓は残っていた。昨夜は暗かった港に日が差し、岸壁に停めたトラックから荷物が下ろされている。
俺はベッドに座ったまま、しばらく眺めた。
夢ではなかったらしい。
台所へ行くと、昨夜食べた焼き鳥の串が皿に残っていた。持ち手の紙にはタレが染みている。捨てる前にもう1度見てから、洗面所へ向かった。
今日は仕事だ。美緒が来るのも、夕方になる。
歯を磨きながら、自宅の冷蔵庫を思い出した。ゲームでは何種類かの飲み物を入れていたが、あれも飲めるのだろうか。風呂の湯は出るのか。川辺のテントは残っているのか。
確かめたいことが、次々に浮かんだ。
時計を見て、歯ブラシを洗った。今から街へ行ったら、遅刻する自信があった。
出勤前に窓へ触れると、管理画面が開いた。昨夜は《街に入る》しかろくに見ていなかったが、人口や電力、水道の状態も表示されている。
電力供給も水道も正常だった。食料の在庫もある。
ただ、画面の端に出ている日時がおかしかった。
ゲームを終えたのは、街でも夜だった。今は翌朝どころか、日付が何日も進んでいる。
表示を開くと、時間についての説明があった。
《現実出身の登録者が街にいる場合:通常速度》
《現実出身の登録者が街にいない場合:24倍速》
俺はスマートフォンの時計を見た。
昨夜、最後に街を出てから約7時間。街では、7日ほど過ぎたことになる。
窓の中で、港のクレーンが荷物を持ち上げた。見ている間にも、トラックが何台も入れ替わっていく。
俺が寝ている間も、ここで暮らしていたのか。
もう少し見ていたかったが、出勤の時間だった。美緒へ画面の内容を送り、鞄を持って部屋を出た。
*
仕事が終わって部屋へ戻ると、美緒から返信が来ていた。
『仕事終わった。18時半くらいに着く』
『24倍って何? 野菜、すぐ育つじゃん』
その発想はなかった。
俺は『待ってる』と送り、ネクタイを外した。美緒が来るまで40分ほどある。
今度は、街へ行ける。
靴を履き、壁に触れて《街に入る》を押した。
自宅のリビングへ移ると、窓から夕方の光が差していた。朝とはまた日付が変わっているが、時間帯は近い。現実で1時間が過ぎる間に、向こうでは1日が過ぎるからだろう。
まず、時間の表示を確認した。
俺がいる間は、秒が普通に進んでいる。
管理画面を閉じて、台所へ向かった。蛇口をひねると水が出た。指で触れ、次にコップを探す。食器棚を開けると、青い縁取りのコップがあった。
家具を揃えたとき、まとめて買ったものだ。
水を入れて飲んだ。冷たくて、変な味もしなかった。朝から気になっていた冷蔵庫には、瓶の炭酸飲料が並んでいる。
1本開けると、栓が音を立てて外れた。口をつければ、甘い柑橘の味と泡が舌に広がった。
調子に乗って続けて飲み、喉の奥が痛くなった。
瓶を置いて、浴室へ行った。
蛇口から湯が出る。手を差し入れると少し熱かったので、水を足した。東京の部屋の風呂よりずっと広く、脚を伸ばして入れそうだった。
今入ったら、美緒が来ても気づかないかもしれない。
湯を止め、リビングへ戻った。
スマートフォンには、やはり電波が入っていなかった。街にいる間は、現実からの連絡を受けられない。美緒にも伝えておく必要がある。
残り時間を確かめ、ガレージから車を出した。
川辺まで行くのは間に合わない。代わりに、近くの市場通りへ向かった。
昨夜の屋台には、同じ店主がいた。夕飯にはまだ早いのか、客は少ない。
「今日は早いな」
「昨日の焼き鳥がうまかったので」
「昨日?」
店主が首を傾げた。
「この前だろ。しばらく見なかったけど、どこか行ってたのか?」
俺は返事に詰まった。
こちらでは、もう何日も前になる。
「ちょっと、向こうで仕事があって」
「そりゃ、ご苦労さん。今日もタレ?」
「はい。あと、辛い方も1本」
美緒の分だった。
店主は焼き鳥を返しながら、脇の棚から小さな容器を取った。
「辛いの、別にしておくか? 連れの子だろ」
「わかるんですか」
「あんた、前に食って大騒ぎしてたじゃないか」
ゲームの演出だった。俺が操作を間違えて走り回ったことまで、この人は覚えている。
店主は笑いながらソースを容器へ入れた。
「少しずつつけな。あの子にも言っといて」
俺は代金を払い、紙袋を受け取った。
車に戻ってからも、屋台の方を見ていた。店主は次の客と話しながら、手際よく串を並べている。
名前を聞けばよかった。
6年間、屋台の店主としか思っていなかった人に、俺も美緒も覚えられていた。
*
アパートへ戻ると、スマートフォンに美緒からメッセージが届いていた。
『駅着いた。何か買っていこうか?』
俺は紙袋を机へ置き、『飲み物だけ頼む』と返した。
街の炭酸飲料も持ってくればよかった。けれど、今から取りに行って、もし美緒が早く着いたら困る。
机の上を片づけ、椅子をもう1脚出した。
チャイムが鳴ったのは、18時半を少し過ぎた頃だった。
玄関を開けると、美緒がコンビニの袋を提げて立っていた。仕事帰りの薄いブラウスに、紺色のパンツ。肩にかかる髪は片側だけ耳へかけている。
「来たけど。直人、大丈夫?」
「その聞き方、まだ疑ってるだろ」
「そりゃ疑うよ。壁からゲームに行けるって、夜中に言われたんだよ」
もっともだった。
美緒は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。机の紙袋を見つけると、俺より先に近づいていく。
「これ、写真の?」
「今日はお前の分も買ってきた」
袋を開けると、焼き鳥の匂いが広がった。美緒が中を覗き、小さなソースの容器を見て顔を上げた。
「辛い方?」
「店主に、少しずつつけろって言われた」
「……あの屋台のおじさんに?」
「ああ。俺が前に食って走り回ったのも覚えてた」
美緒はすぐには手を伸ばさなかった。椅子へ座り、串を1本取る。ソースを少しつけて、先の肉をかじった。
俺は向かいで待った。
彼女はもうひと口食べ、それから串を見た。
「おいしい」
「だろ」
「辛いけど。これ、どこで買ったの?」
「だから、あの屋台」
「味、知らなかったもん。食べても、同じかどうかわかんないよ」
確かにそうだった。
俺は笑いかけたが、美緒はソースの容器へ視線を落としていた。
「でも、こういう入れ物だったよね。屋台の横に積んであったやつ」
「覚えてるのか」
「見てたよ。いつも使わないのかなって思ってた」
彼女は串を紙袋の上へ置き、部屋を見回した。
「窓って、どれ?」
俺は机の横の壁を指した。
「そこ」
美緒が顔を向ける。立ち上がって壁へ近づき、少し腰をかがめた。
俺には、港と住宅街が見えていた。小さな車が坂を下り、海沿いの道へ曲がっていく。
「ここ?」
「ああ。ちょうど、お前の顔の前」
美緒は俺を見てから、白い壁へ手を置いた。窓がある場所を、掌でゆっくり撫でる。
「何もないよ」
俺は彼女の隣へ立った。
美緒の指は、街の景色が見えている場所に重なっていた。けれど、彼女が触れても表示は出ない。
俺が窓の縁へ触れると、管理項目が開いた。
その中に、《招待》という文字があった。
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