第1話 いつもの焼き鳥の、本当の味
好きだったゲームの世界に、本当に入れたら。
まずは何をしてみたいですか?
そんな想像から生まれた物語です。
直人と美緒が楽しむ街を、一緒に歩いていただけたら嬉しいです。
この街で最後にすることが、洗車でよかったのか。
サービス終了まで残り1時間になって、俺はようやくそう思った。青いステーションワゴンのボンネットには、まだ洗剤の泡が残っている。
「直人、まだ洗ってるの?」
ヘッドセットから声がした。振り向くと、ガレージの入口に美緒が立っていた。白いシャツに赤いスニーカー。最後の日も、見慣れた格好だった。
「せっかくだから、綺麗にしておこうと思って」
「今から山行くんだけど」
俺は手を止めた。
「……そうだった」
「もういいよ。乗ろう。川まで行けなくなっちゃう」
美緒が助手席に乗り込み、俺は泡を流して洗車道具を片づけた。
相沢直人、27歳。東京で働きながら、帰宅後に少しずつ育ててきた街が、今夜11時に消える。
6年間遊んだ『タウンスケープ・オンライン』のサービス終了だった。
初めて自分の街へ降りたときのことは、今でも覚えている。上から配置していた建物を見上げ、自分で引いた道を海まで歩いた。途中でベンチに座ってみると、目の前をバスが通り過ぎた。停留所も、そこから降りてくる住人の家も、俺が置いたものだった。
嬉しくて、その日は何もつくらず、街を歩き回っていた。
以来、新しい地区をつくるたび、自分で確かめるようになった。道が遠回りだったり、店の入口が裏を向いていたり、上から見ているだけでは気づかないことが結構あった。
ガレージを出て、住宅街の坂を下る。緩く曲がった先で、海が見えた。
「ここ、止めて。最後に撮りたい」
美緒に言われ、道の脇へ車を寄せた。
この坂は、彼女の提案で曲げた道だった。俺は駅まで短くつなぐことしか考えていなかったが、美緒は完成前の土地を見て、ここから海が見えると気づいた。
必要な設備を揃え、きちんと動かすのは好きだ。でも、景色や、歩いていて気持ちのいい道をつくることでは、彼女に敵わない。
「車も入れて撮る?」
「うん。直人はそのままで」
三崎美緒は25歳。ゲームで知り合い、現実でも何度か会っている。俺と同じく地方から東京へ出てきて、一人暮らしをしていた。
本人も、ゲームのキャラクターと同じくらいの、肩にかかる髪をしている。笑うと目尻が下がり、面白いことがあると、先に顔を見ただけでわかる。
初めて待ち合わせた日も、俺を見つけた彼女が嬉しそうに手を振ったので、こちらまで笑ってしまった。
「撮れた?」
「もう1枚。さっき目つぶってた」
「俺の?」
「私の」
ゲームでもそんなことがあるのかと笑い、もう少し待った。
坂を下りると、繁華街の明かりが近づいてきた。映画館の前を路面電車が横切り、港へ向かうトラックが交差点を曲がる。俺はその後ろを通って、市場通りへ入った。
「焼き鳥、買っていこう」
「寄ると思ってた」
馴染みの屋台の前に車を停める。鉄板の向こうで、店主が手を上げた。
「いつものかい?」
注文すると、鶏もも肉と長ねぎを交互に刺したねぎまが渡された。美緒は辛いソースも追加する。
「最後まで、それなんだな」
「直人も食べれば?」
「前に食っただろ」
「あの顔、もう1回見たかったのに」
辛いものを食べると、キャラクターが口を押さえて飛び跳ねる。前に俺が驚いて操作を間違え、屋台の前で走り回ったことを、美緒はまだ覚えていた。
彼女が先に食べ、白いシャツのキャラクターが目を丸くした。通話から笑い声が聞こえてくる。
俺も焼き鳥を食べると、満腹のゲージが少し伸びた。現実の方でも腹が減ってきた。冷蔵庫の弁当を思い出したが、温めるのはゲームが終わってからにした。
街を抜けると、道の両側に畑が広がった。牧場の柵の向こうを牛が歩き、山道へ入れば街明かりが遠ざかる。川沿いの未舗装路を走ったところで、車体に砂埃がついた。
「ほら、汚れた」
「見えてるよ」
キャンプ場に着いたとき、残り時間は35分だった。
急いでテントを張り、川のそばに焚き火台を置く。折り畳み椅子へ座り、ようやく手を止めた。
前に来た日は、テントを張った直後に雨が降った。美緒が車へ逃げ込み、俺が道具を片づけている間に川の水位まで上がってきて、結局、何もしないまま帰った場所だ。
今日は対岸の木々が川面に映っていた。火の粉が上がり、薪のはぜる音がする。
「今度は晴れたね」
「ああ」
「もっと早く来ればよかった」
俺は画面から残り時間の表示を消した。
「次にこういうゲームが出たら、また街つくる?」
美緒が聞いた。
「つくると思う。お前は?」
「私も。でも、同じ街にはならないんだろうね」
美緒の街には、小さな広場がいくつもあった。パン屋のそばのベンチや、駅から続く花壇の道。何度も遊びに行った場所なのに、最後にもう1度見てくる時間はない。
「ここのキャンプも、まだ何もしてないな」
「焚き火してるよ」
「泊まって、朝飯つくって。そういうの」
「じゃあ、次はそこまでやろう」
俺は頷いた。新しいゲームを見つけたら、また川のそばにつくればいい。今は、それくらいしか考えたくなかった。
やがて、サービス終了を知らせる文章が画面の中央に現れた。
焚き火の向こうから美緒が消えた。続いてテントも川も暗くなり、運営からの挨拶だけが残った。
「……終わったね」
彼女の声は、まだ聞こえていた。
俺は椅子にもたれ、目をこすった。壁の時計は11時を少し過ぎている。
「ちゃんと飯食えよ」
「直人もね。おやすみ。また連絡する」
通話が切れてから、ヘッドセットを外した。
暗いモニターに、短い髪が乱れた自分の顔が映っている。くたびれた部屋着のまま、ずっと座っていたせいで腰が痛かった。
車を洗う暇があったなら、あと数分早く川へ行けばよかった。
立ち上がったとき、机の横の壁で何かが動いた。
光が落ちている。
モニターを消しても、その光は消えなかった。白い壁に、A4の紙ほどの小さな窓があった。
中で、路面電車が走っていた。
俺は腰をかがめた。市場通りの赤い屋根。その先の交差点。線路沿いの映画館には、まだ人が並んでいる。
自分の街だった。
窓の縁に触れると、薄い文字が浮かんだ。
《管理者接続を確認》
視点を変えるもの、地区を拡大するもの。見慣れた管理項目に混じって、《街に入る》という表示があった。
指を離し、もう1度街を見た。電車が駅へ入り、ホームで待っていた人たちが乗り込む。
スマートフォンで撮ってみたが、写真には普通の壁しか写らなかった。
何度撮っても同じだった。俺はスマートフォンをポケットへ入れ、玄関から靴を持ってきた。《街に入る》の下には、移動先として自宅のリビングが表示されている。
靴を履いてから、その文字を押した。
目の前の壁が消えた。
俺は木の床の上に立っていた。右手にソファ、その奥にガレージへ続くドアがある。見覚えのある部屋だったが、思っていたより天井が高い。
振り返ると、壁に小さな窓があった。向こうにはアパートの机と椅子が見えている。
窓に触れると、《街を出る》と表示された。
押した途端、俺はアパートの壁の前へ戻っていた。
机も椅子も、そのままだ。靴も履いている。ポケットからスマートフォンを出し、時刻を見た。まだ1分も経っていなかった。
窓へ触れ、もう1度《街に入る》を押した。
また、あのリビングに立っていた。
今度はソファへ近づき、背もたれに手を置いた。布地の細かな凹凸が掌に触れる。腰を下ろすと座面が沈み、膝に置いた手まで少し揺れた。
何度も座っていた場所だ。美緒と次の施設を相談するときも、ゲームの俺はここにいた。
肘掛けを握り、少し力を入れた。布の下に硬い芯がある。テーブルへ手を伸ばすと、木の表面はひんやりしていた。
俺はしばらくそこに座り、部屋を見回した。
窓の外で、車が通り過ぎた。
買ったときには色で迷ったソファも、少し大きすぎたテーブルも、全部ここにある。足元へ視線を落とし、床を靴で軽く踏んでみた。
「本当に来ちゃったのか」
声に出したら、おかしくなって笑った。
誰もいない部屋で笑っていることに気づき、隣の席を見た。美緒なら、まず何に触るだろう。ソファに座る前に、窓から海を見に行くかもしれない。
俺は立ち上がり、ガレージへ向かった。
青い車のボンネットには、水滴が残っていた。
運転席のドアを開けると、革と洗剤の匂いがした。シートを前へ動かし、キーを回す。エンジンがかかり、足元から低い振動が伝わった。
門を出るまでは、歩くほどの速度で進んだ。ブレーキを踏み、止まることを確かめる。帰省したときに乗る実家の車より大きく、ハンドルを握る手に力が入った。
坂道の先で海が見えた。
俺はアクセルを緩めた。窓を少し開けると、冷たい風と一緒に潮の匂いが入ってきた。
美緒が写真を撮った場所に車を停め、しばらく海を眺めた。窓枠に置いた腕が冷えてきて、ようやく車を出した。
市場通りまで走り、屋台の前に停める。ドアを開けた途端、焼けた肉の匂いが鼻に届いた。
鉄板の向こうで、店主が顔を上げた。
「いつものかい?」
「……1本、お願いします」
「今日は1人?」
俺は返事を忘れた。
店主は俺の背後を見てから、鉄板の串を返した。脂が落ち、音を立てる。
「タレでいいんだよな?」
「あ、はい」
屋台の端に、支払い用の小さな画面があった。触れると見慣れた所持金が表示され、注文の分だけ減った。
「熱いからな」
店主が、紙を巻いた持ち手を差し出した。
受け取った指に、じんわりと熱が伝わる。
端の肉へ息を吹きかけ、少しだけかじった。焼けた皮が歯の下で破れ、中から肉汁が出た。
「あっつ……」
慌てて口を離すと、店主が笑った。
少し待ってから、もう1度食べた。タレの甘辛さと、焦げた皮の香ばしさが口に広がる。もも肉は柔らかく、噛むたびに脂がにじんだ。
長ねぎは表面に焼き目がついていた。中はとろりとしていて、肉のあとに食べると甘かった。
俺は串を見下ろした。
何度も買った焼き鳥だった。移動の途中で寄って、美緒と話しながら食べて、すぐ車へ戻る。それがいつもの流れだった。
今日は、食べ終わるのが惜しかった。
「うまいです」
「腹減ってたんだろ。もう1本いくか?」
「……お願いします。持って帰ります」
待っている間に、スマートフォンで写真を撮った。今度は焼き鳥も屋台も、ちゃんと写った。ただ、電波は入っていなかった。
美緒の頼むソースは、どれくらい辛いのだろう。
初めて現実で会った日に入ったラーメン屋で、彼女は胡椒を入れすぎて咳き込んでいた。俺が水を差し出すと、笑ったことを怒りながら、すぐに受け取った。
あの顔を思い出して、辛い方も頼みかけた。
明日来てくれるなら、自分で選ばせよう。
紙袋を受け取り、俺は家へ戻った。
リビングの壁の窓に触れ、《街を出る》を押す。アパートへ戻っても、紙袋は手の中に残っていた。
狭い部屋に焼き鳥の匂いが広がった。
電波が戻ったスマートフォンから、美緒へ写真を送った。
『まだ起きてる?』
『うん。何それ、おいしそう』
『いつもの屋台のやつ。今、食べてきた』
すぐに着信が来た。
「何? 似たやつ買ってきたの?」
「いや、あの店のやつなんだ」
「どういうこと?」
俺は壁の窓を見た。そこにはまた、街全体の景色が映っている。港から海沿いに明かりが続き、山の方は暗かった。
「街が、まだある」
「ゲーム、まだ入れるの?」
「パソコンじゃない。部屋の壁に窓が出てきた。そこから街に行ける」
美緒は黙った。
「直人、今日、何か飲んだ?」
「飲んでない」
「じゃあ、寝てた?」
「さっきまで一緒に遊んでただろ」
「そうだけど……」
俺は紙袋から焼き鳥を出した。まだ温かかった。
「明日、来てくれ。見てもらった方が早い」
「本当に、あの街?」
「ああ。車も運転した。焼き鳥も味がする」
「私の辛いやつは食べた?」
「食べてないよ。自分で頼め」
ようやく、美緒が少し笑った。
「じゃあ、明日行く。仕事終わったら連絡するね」
電話を切り、俺は焼き鳥を皿へ移した。
美緒は、これまでも何度かこの部屋へ来ている。それでも、明日はいつもと違う気持ちで玄関を開けることになりそうだった。
床の服を拾い、空いたペットボトルを袋へ入れる。机を拭いている途中で壁の窓が目に入り、俺はまた手を止めた。
市場通りでは、まだ屋台に明かりがついていた。
明日は2人分頼もうと思った。
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