第22話 結衣の席
結衣が泣き止むまで、美緒は床に座っていた。
小さな手が胸元の服を握っている。息が落ち着いてからも、結衣は顔を上げなかった。
「お水、もう少し飲む?」
美緒が聞くと、結衣が頷いた。
俺は台所からコップを持ってきた。軽くて、両手で持ちやすいものを選び、水を少し入れる。
結衣は美緒の腕から顔を上げ、受け取った。
ゆっくり飲んでから、コップの中を覗く。俺が足してやると、もうひと口飲んだ。
「痛いところ、ある?」
美緒が聞いた。
結衣は自分の掌を見せた。はしごを握っていたところが赤くなっている。
「ここ、ちょっと」
「ほかは?」
首を振った。
美緒は袖や膝を確かめ、手を洗いに行こうと声をかけた。立ち上がると、結衣が服を掴む。
「一緒に行くよ」
手をつなぐと、結衣も立った。
俺は2人を見送り、鞄からパンを出した。救助に持っていったものが、そのまま残っている。
「お腹すいてるか?」
結衣が振り返り、頷いた。
「じゃあ、用意しておく。手を洗ったら食べよう」
*
食卓の椅子へ座ると、結衣の足は床へ届かなかった。
美緒が隣へ座り、俺はパンを小さく切って渡した。
結衣は1切れを両手で持ち、すぐに口へ入れた。食べ終わる前に、次へ手を伸ばす。
「まだあるから、急がなくていいよ」
美緒が水のコップを寄せた。
結衣は頷いたが、皿から目を離さなかった。
俺はスープを温めた。少し冷ましてから、小さな器へ入れる。
結衣がスプーンを取り、ひと口飲んだ。
もうひと口飲んで、それから俺を見る。
「おかわり、していい?」
「いいよ」
鍋から足すと、彼女はまた食べ始めた。
美緒は隣で、自分もパンを食べていた。結衣がコップを取ると、器を少し横へずらし、置きやすくしてやる。
しばらくして、結衣の食べる速さがゆっくりになった。
残ったパンを見て、俺へ顔を上げる。
「これ、あとで食べてもいい?」
「ああ。残しておこう」
小さな保存容器へ入れ、蓋を閉めた。
「お腹すいたら言ってな」
結衣は容器を見てから、頷いた。
*
食後、美緒は濡らしたタオルで結衣の顔を拭いた。
頬に残っていた汚れが取れ、額へ貼りついていた髪を指で直してやる。
「着替えも買いに行こうか。その服、洗いたいよね」
結衣が自分のシャツを見た。
袖口が黒くなり、裾には薄い染みがあった。
「外?」
「うん。近くのお店」
結衣は窓へ目を向けた。
「さっきの人、いる?」
「ここにはいないよ」
美緒が隣へしゃがんだ。
「私もお兄ちゃんも一緒に行く。嫌だったら、今日は家にいよう」
結衣は窓の外を見たまま考えていた。
俺は玄関を開け、先に庭へ出た。
隣の家で、女の人が洗濯物を取り込んでいる。道を自転車が通り、少し離れたところから犬の鳴き声がした。
美緒と結衣が玄関まで来た。
結衣は彼女の手を握り、戸口から顔を出した。庭を見て、道を見て、俺へ目を向ける。
「車で行く?」
「ああ。すぐそこにある」
俺が指すと、結衣は靴を履いた。
*
服屋へ着いても、結衣は美緒から離れなかった。
子供服の棚の前で、美緒がしゃがむ。
「好きな色、ある?」
結衣は並んだ服を見た。
黄色いシャツのところで目が止まる。胸に小さな花の絵があった。
美緒が取って見せた。
「これ?」
結衣が頷いた。
大きさを確かめ、寝間着や下着も選ぶ。俺は少し離れたところで待った。
試着を終えた結衣が、元の服へ着替えて戻ってくる。黄色いシャツは美緒が持っていた。
「これも、いいの?」
結衣が聞く。
「うん。気に入ったんでしょ?」
「お金、ないけど」
俺は2人のそばへ行った。
「今日は俺が買うよ。着替え、必要だからな」
結衣が俺を見上げた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「ああ」
返事をしてから、俺は服へ目を落とした。呼ばれ慣れていないせいで、少し照れた。
会計を済ませると、結衣が袋を持とうとした。
「軽い方、頼んでいいか?」
寝間着の入った袋を渡す。彼女は両手で受け取り、胸の前で抱えた。
帰りは車の窓から、通りの店を見ていた。
パン屋の前で、美緒へ顔を向ける。
「あそこ、パン?」
「そう。明日の朝、食べようか」
結衣が頷いた。
*
家へ戻り、食卓の椅子へクッションを置いた。
結衣に座ってもらうと、机との高さが少し合った。足元にも台を置き、靴を脱いで載せてもらう。
「どう?」
美緒が聞いた。
「届く」
結衣が足を揃えた。
俺はクッションが滑らないよう留め、椅子を少し引いた。
「ここ、結衣ちゃんの席にしよう」
彼女は机へ手を置き、向かいの椅子を見た。
「お兄ちゃんは?」
「こっち。お姉ちゃんは、その隣」
3つの椅子を順に指すと、結衣が自分の椅子へ座り直した。
着替えを手伝うため、美緒が彼女を寝室へ連れていった。
俺はその間に、リビングの奥へ小さなベッドを用意した。部屋を増やすこともできるが、今日の結衣を1人で寝かせるのは気が進まなかった。
美緒の部屋の家具を動かし、ベッドを並べる。
黄色いシャツへ着替えた結衣が、入口に立った。
「ここで寝るの?」
「うん。しばらく私と一緒でいい?」
美緒が聞く。
結衣はすぐに頷いた。
小さなベッドへ近づき、布団に手を置く。それから扉へ顔を向けた。
「鍵、掛けなくていい?」
美緒は結衣のそばへ座った。
「掛けなくていいよ。夜、起きたら私を呼んで」
結衣は扉をもう1度見てから、美緒の隣へ腰を下ろした。
*
夕飯は、3人で食べた。
結衣の前には小さめの器を置いた。昼ほど急がずに食べ、美緒が水を飲むと、自分もコップを取る。
俺は食べながら、明日のことを考えていた。
2人なら、腹が減ってから店へ行けばよかった。これからは結衣の食べる時間も、寝る時間も気にする必要がある。
「結衣ちゃん、何歳?」
美緒が聞いた。
「8歳」
「好きな食べ物は?」
結衣は少し考えた。
「卵焼き」
「甘いの?」
「うん。お母さん、つくってくれる」
そのあと、箸が止まった。
結衣は膝へ目を落とし、シャツの裾を掴んだ。
「お母さん、あとから来る?」
俺は箸を置いた。
美緒が結衣の方へ椅子を向ける。
「お母さん、結衣ちゃんをお部屋へ入れてくれたんだよね」
「うん」
「そのあと、呼んでもお返事しなくなった?」
結衣が頷いた。
俺たちは母親を、あの部屋へ残してきた。明日会えると約束することはできなかった。
「今は、ここへ連れてこられないんだ」
俺が言うと、結衣がこちらを見る。
「治ったら?」
俺は膝の上で手を握った。
「ごめん。まだ、わからない」
結衣はしばらく俺を見ていた。それから美緒の方へ体を寄せた。
美緒が背中へ手を置く。
「お母さんのこと、話したくなったら聞かせてね」
結衣は顔を伏せたまま頷いた。
器には、まだ料理が残っていた。俺は皿を片づけず、2人のそばにいた。
*
夜、結衣は美緒と同じ部屋へ入った。
俺が廊下を通ると、扉の向こうから呼ばれた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「明日も、ここにいていい?」
部屋の前へ戻る。
結衣が布団へ入ったまま、こちらを見ていた。隣では、美緒が枕を直している。
「いいよ。明日も、ご飯は一緒に食べよう」
結衣が頷いた。
「卵焼き?」
「つくってみる。味、教えてくれるか」
「うん。お砂糖、入れる」
美緒が俺を見て、少し笑った。
「じゃあ、明日の朝は卵焼きね」
照明を暗くすると、結衣が布団から手を出した。美緒がその手を取る。
扉は閉めきらず、少し開けておいた。
俺は台所へ戻り、冷蔵庫の卵を確かめた。それから朝使う皿を3枚出し、結衣の席にも1枚置いた。
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