第21話 結衣ちゃん、こっちへ
美緒の部屋へ戻ると、頭の上で窓を開ける音がした。
親への電話を試すため、現実へ出たところだった。俺がスマートフォンを取り出している間に、美緒が顔を上げた。
「……誰かいますか」
外から、小さな声が聞こえた。
美緒がカーテンの端を持った。俺も隣へ行き、通りを確かめる。建物の裏には人影がなかった。
窓を開けると、上から声がした。
「だれかいるの?」
2人でベランダへ出た。
真上の手すりの隙間に、小さな顔があった。髪の先が頬へ貼りつき、片手で柵を握っている。
「いるよ。顔、そんなに出さなくていいからね」
美緒が言った。
子供は顔を引っ込めた。手すりの向こうで屈んでいるらしく、声だけが下りてくる。
「お水、ありますか」
「ある。持ってくるよ」
美緒が室内へ戻り、飲みかけのボトルを取ってきた。
俺は上下のベランダを見た。床から床まで、腕を伸ばしても届かない。上の子も、その距離を見ていた。
「お母さんはいる?」
美緒が聞いた。
「お部屋の外」
「呼んでくれる?」
返事がなかった。
少しして、子供が言った。
「呼んでも、開けないでって」
俺は美緒を見た。
「お母さんに言われたの?」
「うん。この部屋にいてって。鍵、掛けた」
上の部屋で、何かが扉へぶつかった。
子供が息をのむ。
美緒は水のボトルを持ったまま、手すりから少し離れた。
「名前、教えて」
「結衣」
「結衣ちゃん。私は美緒。もう1人、直人っていうお兄ちゃんがいるよ。玄関の方から行ってみるから、部屋の鍵は開けずに待ってて」
*
廊下へ出る前に、俺は覗き穴を確かめた。
見える範囲には誰もいない。扉を細く開け、階段の方を見た。
向かいの部屋の入口が開いていた。
廊下へ引き出しが落ち、衣類が散っている。誰かが中を漁ったのだろう。扉の奥は暗く、まだ人がいるかどうかはわからなかった。
俺は美緒へ静かにするよう合図し、階段へ向かった。
3階の端の部屋が、結衣の家だった。
小さくノックする。
「結衣ちゃん。下にいた直人だよ」
返事は遠かった。
「いる」
ノブへ手をかける。鍵が掛かっていた。
その瞬間、内側から扉へ何かが当たった。
俺は手を離した。
扉のすぐ向こうで、喉を鳴らすような音がした。続けて、爪か硬いものが表面を擦る。
「お母さん?」
美緒が小さく呼んだ。
返事はなかった。ノブが動き、扉がもう1度揺れた。
廊下の反対側でも、物音がした。
奥の開いた部屋から、足を引きずる音が近づく。曲がり角の陰に、男の肩が見えた。
俺は美緒の腕を引いた。
階段を下り、彼女の部屋へ戻る。扉を閉めて鍵を掛けると、2人ともその場で耳を澄ませた。
足音は上の階で止まっていた。
「玄関は無理だ」
俺が言うと、美緒は頷いた。
「ベランダから、あの部屋へ行けないかな」
*
隣のベランダとの隔て板は、すでに破れていた。
大きな穴の下へ破片が溜まっている。いつ壊されたのかはわからない。俺が先に覗くと、隣室の窓は閉じていた。カーテンも引かれ、中は見えない。
上を見上げた。
隣の3階のベランダには、避難ハッチを示す表示があった。美緒のベランダには、上からはしごが下りてくる設備はない。
「上がれれば、隣のはしごで下りられる」
「でも、下からは出せないよね」
「ああ。結衣ちゃんのところへ、別に上がるしかない」
街へ戻り、工具やはしごを扱う店へ行った。
壁の高さを伝え、鉤付きの縄ばしごを見せてもらった。ただ引っ掛けるだけでは使えず、手すりの形や強度も確かめる必要があった。
使い方を聞き、低い位置で試した。足を載せると、硬いはしごとは違って体の動きに合わせて揺れる。
俺は両手で握ったまま、1段下りた。
「子供も使えますか」
「この形だと、慣れていない子には難しいね」
店員が答えた。
結衣を下ろすのは、備えつけの避難はしごにしよう。上がるのは俺だけだ。
美緒が水とパンを小さな鞄へ入れた。隔て板を破るための道具も用意し、現実へ戻った。
*
結衣は、寝室の窓のそばで待っていた。
母親は玄関の方へ行き、今は部屋の前にいないという。
「お母さん、腕、怪我してたの」
上から、結衣の声が下りてきた。
「血が出てた。ここに入れてくれて、あとで来るって」
美緒が顔を上げた。
「うん」
「でも、話してくれなくなった」
俺は縄ばしごを持ち上げた。
「結衣ちゃん、今からそっちへ行く。窓のそばで待ってて。手すりには乗らないで」
彼女が頷いた。
取りつけた鉤と手すりの様子を確かめ、体重を少しずつ掛けた。美緒が下側を押さえる。
足を上げると、はしごが壁へ寄った。
次の段へ移る。体が揺れ、足先が壁から離れた。
俺は動きを止めた。
下から見たときより、手すりは高かった。腕に力が入り、鞄の紐が肩へ食い込む。
「直人、大丈夫?」
美緒が声を抑えて聞いた。
「ああ」
揺れが収まるのを待ち、また1段上がった。
最後は手すりを掴んで体を寄せ、片足をベランダの床へ移した。もう片方も入れてから、ようやく息を吐いた。
結衣が窓を開けた。
小さな女の子だった。服の襟が片側へ寄り、唇が乾いている。俺の顔より、鞄を見ていた。
「水、持ってきたよ」
ボトルの蓋を開けて渡す。
結衣は両手で受け取り、続けて飲もうとして咳き込んだ。
「ゆっくり。まだあるから」
俺が言うと、彼女は口を離した。
寝室の奥で、音がした。
扉が、ゆっくり押されていた。
結衣が振り返る。
「お母さん」
俺は彼女の前へしゃがんだ。
「この下に、美緒が待ってる。そっちへ行こう」
「ここにいなさいって」
「そうだね。ちゃんと待ってたね。でも、水もご飯も、下にある。俺と一緒に行こう」
結衣はボトルを胸へ抱えた。
部屋の扉が、もう1度鳴った。
彼女は俺へ顔を戻し、小さく頷いた。
*
結衣を窓からベランダへ出した。
縄ばしごを覗かせるつもりはなかった。俺でも足が止まった。弱った子供に、同じように下りろとは言えない。
隣との隔て板を指す。
「あっちに、下りるはしごがある。少し大きな音がするから、窓の横で待ってて」
結衣を破片の飛ばない位置へ座らせ、道具を持った。
周りを見た。
向かいの建物の窓が並んでいる。誰かが中から見ているかもしれない。廊下の物を漁った人が、音を聞いて戻ってくるかもしれなかった。
下では、美緒が隣のベランダへ移っていた。
俺が合図すると、彼女が頷く。
板を叩いた。
乾いた音が、建物の間へ響いた。
角が割れた。もう1度叩き、通れるだけの穴を開ける。
結衣の部屋の内側で、激しい音がした。
寝室の扉へ、何度も何かがぶつかっている。
俺は結衣へ手を伸ばした。
「来て。ここ、破片があるから踏まないように」
彼女は水を握ったまま立ち上がった。鞄へ入れてやり、手を取る。
割れた板の縁を避け、隣のベランダへ移った。
その部屋の窓へ、手が当たった。
カーテンの隙間に男の顔があった。口を開け、ガラスへ頬を押しつけている。
結衣の手が強く握られた。
俺は彼女を自分の後ろへ寄せ、避難ハッチを開いた。
重い蓋が上がる。
下の美緒へ声をかけ、はしごを下ろした。
金属の動く音に、窓の男が体をぶつけた。
ガラスが鳴った。
*
「結衣ちゃん、私がいるよ」
下から美緒の声がした。
結衣は開いた床の前へ屈んだ。下を見て、足を引いた。
「怖い」
「うん。急がなくていい。まず、ここ持って」
俺は握る場所を示した。
結衣が両手を置く。片足を最初の段へ下ろしたところで、また止まった。
窓へ衝撃が加わった。
ピシッ、と音がした。
男の手の近くから、ガラスに細い線が伸びていた。
結衣がそちらを振り向こうとした。
「結衣ちゃん、私を見て」
美緒が呼んだ。
「足の下、もう1つ段があるよ。靴で触ってみて」
結衣は下を向いた。
足が次の段を探す。見つけると、膝が少し伸びた。
「そう。そのまま」
俺は上で待った。
窓がまた鳴った。ヒビが枝分かれし、男の顔の前へ広がる。
結衣を急かしたくなったが、声を飲み込んだ。
小さな手が1つずつ動く。足も、それに合わせて下がった。
美緒が下から手を添えた。
「あと少し。ここに足を下ろして」
結衣が2階の床へ着いた。
俺もはしごへ体を移す。
「先に部屋へ行って!」
美緒が結衣の手を取り、破れた隔て板の方へ向かった。
俺は足を下ろした。
頭の上で、ガラスに何かが当たり続けていた。はしごの段を見て、手を動かす。
2階へ着くと、すぐに体を引いた。
美緒と結衣は、もう自分のベランダにいた。
俺も板の穴を通り、室内へ入った。窓を閉め、鍵を掛ける。
カーテンを引いたところで、上からガラスの崩れる音がした。
何かが床へ落ち、細かな破片が外で跳ねた。
結衣が耳を塞いだ。
俺は窓から離れ、2人のそばへ行った。
*
「こっちへ行こう」
美緒が結衣を壁の前へ連れてきた。
結衣には、まだ普通の壁にしか見えていない。
俺は登録の項目を開いた。
「結衣ちゃん、ここに手を置いてくれる?」
彼女が俺と美緒を見比べた。
美緒が先に壁へ手を置く。
「ここ。私も最初、何も見えなかったよ」
結衣の小さな掌が、壁へ触れた。
俺は登録を確定した。
結衣が手を引いた。
壁に現れた窓を見つめ、口を少し開ける。
向こうには、俺の家のリビングがあった。テーブルとソファ、その奥に、庭へ続く窓が見える。
「おうち?」
「うん。私たちがいるところ」
美緒が答えた。
「結衣ちゃんも、こっちへおいで」
ベランダの方で、何かを引きずる音がした。
俺は玄関とカーテンへ目を向けた。
「美緒、先に」
彼女が街へ移った。
結衣が驚いて俺を見上げたので、窓の中を指した。美緒が向こうから手を振っている。
「同じところに行ける。この表示を押して」
結衣が指を伸ばした。
姿が消えたのを確かめ、俺も続いた。
リビングへ戻ると、美緒が結衣の前へしゃがんでいた。
結衣はまだボトルを抱え、部屋を見回している。庭の明るさに目を留め、窓の方へ1歩進んだ。
「ここ、誰も入ってこない?」
美緒が頷いた。
「うん。さっきの人たちは来られないよ」
結衣は振り返り、俺の姿を見つけた。
ボトルを美緒へ渡し、俺の服の裾を掴んだ。
「お母さんが、ずっと待っててって」
「ああ」
「私、開けなかった」
俺は彼女の前へしゃがんだ。
「うん。ちゃんと守ったんだな」
結衣の顔が歪んだ。
美緒が隣へ来ると、彼女はその腕へ顔を押しつけた。声を出して泣き始め、ボトルを持っていない手で、美緒の服を握る。
俺は窓を閉じた。
それから2人のそばへ座り、結衣が泣く間、背中へそっと手を置いていた。
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