第20話 壁にもたれた男
夜、アパートの窓を開くと、部屋は暗くなっていた。
朝はついていた照明が消えている。テレビの電源ランプも見えなかった。
「停電かな」
美緒が隣で言った。
「部屋の中、見てみよう」
玄関は閉まっていた。机も椅子も、朝と同じ位置にある。カーテンの隙間には、向かいの建物の影が映っていた。
廊下の音を確かめる。
何も聞こえない。
俺はスマートフォンのライトをつけてから、《街を出る》を押した。美緒も続いた。
部屋へ戻り、照明のスイッチを押した。
明かりはつかなかった。
冷蔵庫の音も止まっている。今まで気にしていなかった音がなくなって、玄関の外が近く感じられた。
俺たちは窓のそばへ座り、電話を掛けた。
母にも父にも、つながらなかった。
美緒が通話を終え、画面を下へ向ける。
「今日も駄目だね」
「ああ」
メッセージを送ろうとしたが、やはり失敗した。俺はスマートフォンを膝へ置いた。
美緒の手元をライトが照らしている。
「もう戻る?」
「その前に、あの袋だけ運ぼう。ここにあるやつ」
玄関で人が噛まれた日に、置いてきた袋だった。古いヘッドセットや、まだ使える小物が入っている。
美緒が持ち上げた。
「これ、先に送るね」
俺は流しの下を開けた。
奥に保存食の箱が残っていた。缶詰や、湯で戻して食べるものをまとめて買っておいた箱だ。
これも運んでおこうと引き出したところで、廊下から声が聞こえた。
「こっち、まだ見てない」
俺は手を止めた。
男の声だった。
美緒も袋を持ったまま、玄関を見た。
靴音がいくつか続く。階段の方からではなく、廊下の奥から近づいていた。
隣の扉が叩かれた。
「誰かいる?」
返事は聞こえなかった。
もう1度、強く叩く。
「食べ物、あったら出してくれ」
俺は立ち上がりかけた美緒へ手を伸ばした。彼女がこちらを見て、足を止める。
隣の部屋から、小さな声がした。
「ありません」
女の声だった。
「ないってことないだろ。ずっと中にいるんだから」
「もう、少ししか……」
「じゃあ出せよ」
扉を蹴る音がした。
美緒の肩が跳ねた。
「開けてください。お願いします」
男の口調は丁寧になったが、また蹴った。
俺は保存食の箱を抱え、窓へ近づいた。
美緒が袋を取り込む。続けて箱を窓へ寄せようとしたが、手元がずれた。角が壁へ当たり、鈍い音がした。
廊下の声が止まった。
「こっちもいる」
足音が移った。
俺たちの扉が叩かれる。
「聞こえてるだろ。開けて」
美緒が俺を見た。
俺は箱を窓へ寄せた。品名が表示され、重みが消える。
台所には、まだ別の棚があった。引き出しにも、持っていきたいものが残っている。
俺がそちらへ顔を向けると、美緒が腕を掴んだ。
「もういい。戻ろう」
扉が蹴られた。
靴箱の上に置いた鍵が、細かく鳴った。
「開けろって!」
俺は棚から目を離した。
「先に」
美緒が表示を押した。姿が消え、俺もすぐに続いた。
*
街のリビングへ戻ると、美緒が窓の前に立っていた。
俺の姿を見つけて、腕へ手を伸ばす。
「全部、持ってこなくていいから」
「ああ。ごめん」
俺は窓へ向き直った。
アパートの玄関が映っていた。
外から何度も蹴られ、扉が揺れている。途中で音が止み、金属を擦るような音に変わった。
男の声がした。
「押さえて。そこ、隙間あるから」
美緒が俺の腕を持ったまま、画面を見ていた。
扉の脇が少し曲がった。
何かを差し込み、体重をかけている。鍵の周りから壁紙が剥がれ、枠が外側へ引かれた。
大きな音がして、扉が開いた。
最初に入ってきた男は、片手に金属の棒を持っていた。後ろからもう1人が入り、玄関で室内を見回す。
「いねえぞ」
「さっき音しただろ」
男がカーテンを引いた。窓を開けようとし、鍵が掛かっているのを見て、また閉じる。
もう1人は台所へ向かった。
棚の扉を開け、流しの下を覗く。
「袋、そこに持ってきて」
3人目が入ってきた。
俺たちが食べずに残したものが、袋へ入れられていく。開封済みのものも、そのままだった。
冷蔵庫が開いた。
「これ、まだ食える?」
「知らねえ。持ってけ」
男が床へ落としたものを踏んだ。
美緒が俺の腕から手を離し、隣へ寄った。
「窓、見えないんだよね」
「ああ」
俺はそう答えたが、画面から目を離せなかった。
男たちは押し入れを開けた。
布団を引きずり出し、奥へ金属の棒を差し込む。別の男がベッドの下を覗き、鞄を引っ張り出した。
「どこ行ったんだよ」
「いたなら、隠れてるんじゃないか」
机の下へ顔を入れ、箪笥の扉も開ける。
窓には気づかなかった。
街側の俺たちからは室内が見えているのに、男の目はそのすぐ横を通り過ぎた。
1人が、窓のある壁へ近づいた。
美緒が息を吸った。
男は壁へ背中をつけ、そのままもたれた。片足の靴を脱ぎ、踵を擦っている。
俺たちの方へ顔を向けていた。
それでも、何も見えていなかった。
「水、ない?」
台所の男へ声をかける。
投げられたボトルを受け取り、蓋を開けた。水を飲みながら、壁へ体重を預け直す。
壁の窓は、その背中に隠れた。
俺は、止めていた息を吐いた。
美緒も俺を見た。
「本当に、見えないんだ」
「ああ。触っても、普通の壁なんだな」
彼女が小さく頷いた。
男は靴を履き、袋を持ち上げた。
「隣は?」
「まだ。女がいる」
「先、そっち行こう」
3人が玄関へ向かった。
最後の男が、俺の机の引き出しを床へ落とした。中身が散ったが、拾うものはなかったらしい。
男たちは部屋を出た。
扉は閉まらなかった。
*
廊下で、また扉を叩く音がした。
隣の女が、何か叫んでいる。
美緒が画面へ顔を近づけた。俺も音を聞いたまま、手を下ろしていた。
逃げ込める場所があるのは、俺たちだけだった。
男たちの足音が重なり、大きな音がした。
美緒が俺の手首に触れた。
「こっちの部屋、もう出られないね」
「ああ。扉が開いたままだ」
俺は音を切った。
3つの接続先を並べる。
美緒のアパートは、荷物を運んだあとのままだった。玄関は閉まっている。
川沿いの壁からは、暗い歩道が見えた。足元に紙が飛んできて、草のところで止まる。
俺はその映像も閉じた。
「今夜は、どこからも出ない」
美緒が頷いた。
俺は窓の前から離れ、受け取った保存食の箱を台所へ運んだ。
半分ほどしか入っていなかった。これを奪うために、あの男たちは扉を壊したのだ。
美緒が古いヘッドセットの袋を机へ置いた。
「これ、最初の頃に使ってたやつ?」
「ああ」
彼女は破れた耳の布を見てから、そっと戻した。
俺は椅子へ座った。
アパートの部屋には、好きで買ったものがいくつも残っている。男たちが引き出しを落としたとき、何が壊れたのかもわからなかった。
美緒が隣へ来た。
「直人が残らなくてよかった」
俺は彼女を見た。
「戻ろうって言ってくれて、助かった」
「持っていくもの、もう十分あるよ」
「ああ」
彼女が手を差し出した。
俺はその手を取り、立ち上がった。廊下を通って寝室へ向かう途中、美緒はつないだ手を離さなかった。
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