第19話 買い物袋を離さなかった人
朝の電話は、今日もつながらなかった。
母、父、実家の番号。順に掛け、最後にメッセージを送った。昨日と同じように、送信できなかったという表示が出た。
隣で美緒もスマートフォンを下ろした。
「あとで、また掛ける」
「ああ」
俺は机の上へ手をついた。アパートの電気はまだ使えたが、テレビには同じ注意情報が出ている。新しいニュースを探そうとしても、画面が開かなかった。
街へ戻ろうとしたところで、外から怒鳴り声が聞こえた。
「そっち行った!」
俺は窓へ近づいた。
カーテンを細く開けると、通りを男が走っていた。両手で買い物袋を抱え、停まった車の間を抜けようとしている。
袋は膨らんでいた。端から、水のボトルが覗いている。
後ろから別の男が追いついた。
肩を掴まれ、袋を持った男が車へぶつかる。逃げようと体を捻ったが、もう1人が前を塞いだ。
「離せよ!」
袋を持った男が叫んだ。
前に立った男が、その腹を殴った。
美緒が隣へ来た。俺は腕で止めようとしたが、彼女も隙間から外を見た。
もう1度殴られ、男が膝をつく。それでも袋を胸へ抱えていた。
「全部じゃなくていいだろ。半分やるから」
「いいから離せ」
後ろの男が袋を引いた。
持ち手が伸び、裂けた。
水のボトルと缶詰が道路へ落ちる。小さな紙箱も転がり、前に立っていた男が足で止めた。
膝をついた男は、ボトルを1本掴んだ。
奪おうとした手を、もう片方の手で押し返す。
追ってきた男が、その指を踏んだ。
声が窓まで届いた。
美緒が俺の腕を掴んだ。
男は体を丸めた。それでも、ボトルから手を離そうとしなかった。
もう1人はしゃがんで缶詰を拾っていた。蓋の印字を確かめ、自分の袋へ入れる。
「早くしろ。来るぞ」
その声で、指を踏んでいた男が顔を上げた。
通りの向こうから、3人が歩いてきていた。道路に転がった箱にも、停まった車にも目を向けず、声のした方へ進んでくる。
水を奪った男が、仲間の肩を叩いた。
2人は袋を抱えて走った。
残された男は、膝をついたまま自分の手を見ていた。逃げた2人へ顔を向け、それから近づいてくる人影に気づいた。
壁へ手をつき、立とうとする。
うまく力が入らなかったのか、また膝が落ちた。
「立って」
美緒が小さく言った。
男が車のドアへ腕を掛け、ようやく立ち上がった。足を引きずりながら、細い道へ入っていく。
歩いてきた3人も、そちらへ向きを変えた。
俺たちの部屋からは、その先が見えなかった。
美緒がしばらく隙間を見つめていた。
「行けたかな」
俺は答えられなかった。
*
通りが静かになったあと、向かいのコンビニから人が出てきた。
若い女だった。
小さな鞄のほかには何も持っていない。割れた扉を避け、店の中へもう1度顔を向ける。
店の床には、空の包装袋や紙が散っていた。棚の奥まで見えていたが、商品らしいものは見当たらない。
女は鞄を抱え直した。
配達車の開いた荷台へ近づき、中を覗く。すぐに離れた。
車の荷台も、何日も前から開いたままだった。
女が道路へ落ちていたものを拾った。
さっきの袋から転がった紙箱だった。片側が破れ、中身はほとんどこぼれている。
女は箱を傾けて残りを確かめ、鞄へ入れた。
それから周囲を何度も見て、来た道へ戻っていった。
俺はカーテンを閉めた。
美緒がスマートフォンを握っていた。
「警察、呼べるかな」
彼女が番号を押した。
しばらく待ち、画面を見て、もう1度掛ける。
つながらなかった。
俺も自分のスマートフォンで試した。音声の案内が流れ、通話が終わった。
窓の外から、遠くで何かが倒れる音がした。
「戻ろう」
俺が言うと、美緒は頷いた。
街へ戻る前に、彼女はもう1度、母親へ電話した。
*
昼過ぎ、2人で街のスーパーへ行った。
昨夜食べた分を補充しようと、朝から決めていた。卵と牛乳、それから夕飯に使う野菜を買う。
駐車場には車が並んでいた。子供を連れた人が、カートを押して入口へ向かっている。
美緒は助手席から降り、俺が車を施錠するのを待った。
店へ入ると、パンの焼けた匂いがした。
入口近くに果物が積まれ、奥から買い物客の話し声が聞こえる。俺は籠を取った。
「牛乳から行くか」
「うん」
美緒は隣を歩いた。
冷蔵棚へ向かう途中で、飲み物の売り場を通った。棚には水のボトルが並び、端では店員が箱を開けて補充している。
美緒の足が止まった。
俺も立ち止まった。
彼女は棚を見たまま、鞄の持ち手を握り直した。
「さっきの人、これ1本も持っていけなかったね」
俺は籠を持ち替えた。
「ああ」
「まだ、あの道の先にいるのかな」
ここからでは確かめられなかった。
アパートへ戻っても、男が入った細い道は窓から見えない。探しに出るなら、同じ通りへ降りなければならなかった。
美緒は棚から目を離し、俺へ顔を向けた。
「ごめん。買い物しよう」
「急がなくていいよ」
通路の端へ寄り、ほかの客を通した。
店員が空いた箱を畳んだ。水の棚は、またいっぱいになっていた。
美緒がゆっくり息を吐き、冷蔵棚の方へ歩き出した。
*
鶏肉と野菜を買って、家へ帰った。
美緒は荷物を台へ置き、エプロンを取った。
「今日は、シチューでいい?」
「いいよ。俺、何する?」
「じゃがいもの皮むいて。大きいのから」
俺は袋を開け、流しへ運んだ。
美緒が玉ねぎを切っている間に、じゃがいもを洗う。皮をむき、言われた大きさに切った。
「これでいい?」
彼女が手元を見て頷いた。
「うん。にんじんもお願い」
鍋へ肉が入り、油の音がした。
美緒が木べらで返す。野菜を加えると、台所に匂いが広がった。
俺は使った包丁とまな板を洗った。
鍋が煮えるまで、2人で食卓へ座った。買ってきたパンを切り、皿を並べる。
美緒が窓の外を見ていた。
俺も庭へ目を向けた。隣の家の男が、子供と一緒に小さなボールを投げている。
「ここに来られなかったら、私たちも買いに出てたよね」
美緒が言った。
俺は頷いた。
「部屋にある分だけじゃ、ずっとは持たない」
「うん」
彼女は皿の位置を少し直した。
現実の部屋には保存食が残っている。俺たちが食べる必要はなくなったが、まだ使えるものだった。
あの男がそこにいるとわかっていたら、渡せただろうか。
廊下へ出て、階段を下り、道を渡る。その先に、朝見た人影がいたら。
考えているうちに、鍋の蓋が鳴った。
美緒が立ち上がった。
「火、弱めてくる」
*
夕飯のシチューは、熱かった。
俺は器を持ち上げかけ、指を離した。
「そのままで食べなよ」
「わかってる」
美緒が笑い、パンを渡した。
じゃがいもは柔らかくなっていた。鶏肉を口へ入れると、まだ中が熱く、少し待ってから噛んだ。
美緒もゆっくり食べている。
鍋には、明日の分もあった。冷ましてから冷蔵庫へ入れようと、2人で話した。
食後、俺は器を片づけた。
「夜の電話、もう少しあとでしよう」
「うん。」
美緒はスマートフォンを確かめ、机へ置いた。
流しで水を出すと、使った器の底へ温かい水が溜まった。俺はそれを捨て、スポンジで洗った。
美緒が隣で布巾を広げる。
洗い終えた器を渡すと、彼女は水滴を拭いて棚へ戻した。
その途中で、顔を上げる。
「電話するとき、私も行くから」
「ああ。一緒に行こう」
彼女は頷き、次の皿を受け取った。
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