第18話 電話の向こう
あれから10日、俺たちは1日のほとんどを街で過ごした。
朝は美緒と台所へ立ち、昼には買い物へ行った。夕飯は家でつくることもあれば、エドの店で食べることもあった。
食べ物を買いに外へ出ても、帰り道を心配せずに済んだ。美緒は運転の練習を再開し、俺も夜中に目が覚めることが減った。
現実へ戻るのは、家族への連絡と、外の情報を確かめるときだけだった。
アパートの室内を窓で見て、誰もいないことを確認する。2人で出たら、玄関には近づかず、電話を掛けた。
最初の数日は、テレビで各地の状況を知ることができた。
駅での事件を伝えていた放送は、病院や住宅街での騒ぎを扱うようになった。運休区間が増え、外出を控えるよう繰り返し呼びかけていた。
店の休業を知らせる紙も増えた。
向かいのコンビニは、入口の前に台車を置いたまま閉まった。通りへ停まった車の窓に、何日も同じ紙袋が見えた。
美緒が泊まりに来た夜には、何度もサイレンが聞こえていた。それも、今はほとんど聞こえない。
両親とは毎日話した。
父が買っておいた米や缶詰があり、2人とも家から出ていないという。母は電話のたび、俺が何を食べたか聞いた。
「今日はラーメン」
「また? 野菜も食べなさいよ」
「食べてる。美緒がちゃんとつくるから」
「任せっきりにせんのよ」
俺が返事をすると、隣で聞いていた美緒が笑った。
彼女の両親も無事だった。母親は予定していた検査を延期し、父親も外出をやめていた。
美緒は電話を切ったあと、短く俺へ報告した。
「今日も家にいるって。父、夕飯つくるらしい」
「料理する人なのか?」
「ほとんどしない。母が、台所が大変なことになるって言ってた」
俺たちは、その話をしながら夕飯の支度をした。
9日目の夜も、電話はつながった。
「そっちは、何か変わった?」
俺が聞くと、母は少し声を落とした。
「近所で大きい音がしたけど、見には行ってない。お父さんにも、窓から顔出さんといてって言った」
「うん。そのまま家にいて」
「直人もね」
父にも代わってもらった。
「こっちは大丈夫や。お前も、美緒ちゃんと一緒におれよ」
「わかった。また明日、掛ける」
それが、最後に聞いた父の声だった。
*
10日目の朝、電話はつながらなかった。
母へ掛けても、呼び出し音が鳴らない。通話できないという案内が流れ、切れた。
父へ掛けても同じだった。
俺は少し待って、もう1度かけ直した。
また、同じ案内が流れた。
「直人も?」
美緒が聞いた。
彼女も、耳へ当てていたスマートフォンを下ろしている。
「母も父も駄目。家の電話もつながらない」
「うちもだ」
メッセージを送った。
送信中の表示が残り、しばらくすると失敗した。もう1度押しても、結果は変わらなかった。
美緒が俺の隣へ椅子を寄せた。
「みんな電話してるからかな」
「そうかもしれない」
俺には、それ以上わからなかった。回線が混んでいるのか、どこかの設備が止まったのか。
昨日は2人とも家にいた。母は飯の支度をしていて、父も普通に話していた。
父の番号をもう1度押した。
案内の途中で切り、俺はテレビをつけた。
*
画面には、外出を控えるよう求める文字が出ていた。
昨日も見た画面だった。同じ注意事項が順に流れ、新しい中継は出てこない。
別の局へ変えると、こちらも文字だけだった。情報の更新時刻は昨夜のままになっている。
スマートフォンでニュースを開こうとしても、読み込みの印が回り続けた。
美緒も画面を見ていたが、やがて机へ置いた。
「時間変えて、また掛けよう」
「ああ」
俺は通りに面した窓へ近づき、カーテンを少し開けた。
向かいの車は、ずっと同じ場所にあった。運転席の扉が開いたままで、車内に落ち葉が入っている。
コンビニの台車は倒れていた。ガラスの扉には大きな割れ目があり、店の中の棚が横になっている。
歩道に人がいた。
閉じた店の前へ立ち、シャッターへ手をついている。顔を近づけ、離れ、また触った。
その少し先にも、1人いた。肩を左右へ揺らしながら、道路を横切っている。
美緒が隣へ来た。
俺はカーテンの隙間を狭くした。
「こっち見られるかもしれない。少し下がって」
彼女が半歩下がる。
遠くで金属のぶつかる音がした。
歩道にいた2人が、同じ方へ顔を向けた。シャッターへ触っていた人も手を離し、音の方へ歩き始める。
少しして、建物の間から男が走って出てきた。
片手に袋を持っている。足元を何度も見ながら、交差点へ向かっていた。
袋の口から何かが落ちた。
男は拾わなかった。
道路を渡り、停まった車の間へ入る。その先で、別の人影が動いた。
「そっち、いる」
美緒が小さく言った。
男は気づいて向きを変えた。袋を投げ、車のボンネットへ両手をつく。
体を引き上げようとしたが、片足を掴まれた。
俺はカーテンを閉めた。
窓ガラス越しに、声が聞こえた。
美緒が俺の腕を掴んだ。
助けを呼ぶ声が続き、途中で途切れた。俺たちは窓から離れ、机の前へ戻った。
「街に戻ろう」
美緒は頷いたが、スマートフォンをもう1度取った。
「あと1回だけ」
番号を押して耳へ当てる。
すぐに下ろした。つながらなかったのだとわかった。
俺もスマートフォンを取り、2人で街へ戻った。
*
リビングの窓から、庭の花が見えた。
風が吹き、茎が少し傾く。隣の家では、男がホースを巻いていた。
美緒はソファへ座った。
俺も隣へ座る。
さっきの男の袋には、何が入っていたのだろう。食べ物を探しに出て、帰るところだったのかもしれない。
10日前、俺たちも荷物を取りに行った。今、同じ道を通れるとは思えなかった。
美緒がスマートフォンを両手で持っている。
「昨日は、話せたのに」
「ああ」
俺も画面を開いた。
母とのメッセージが残っていた。今朝送れなかった文章の上に、昨日の返事がある。
『こっちは大丈夫。直人も気をつけて』
美緒が膝の上で指を動かした。
「家、見に行けたらいいのに」
俺も、実家までの道を考えていた。
普段なら新幹線に乗る。今は駅へ行くことも難しい。車で何時間も走る道を、徒歩で進めるはずがなかった。
新しい出口を実家につくるには、まず俺がそこへ行かなければならない。3か所のうち1つを消したところで、距離はなくならなかった。
「今は、そこまで行けない」
美緒は頷いた。
「うん」
彼女が写真の一覧を開いた。実家の食卓を囲んでいる写真だった。母親が皿を手前へ寄せ、父親がその隣へ座っている。
「昨日、父が味噌汁つくったって」
「そうなんだ」
「しょっぱかったらしい。母が、水足したって笑ってた」
美緒は写真を拡大した。
俺は隣に座り、彼女が画面を閉じるまで待った。
*
夕方、もう1度現実へ戻った。
玄関の外で何かを擦る音がした。扉には近づかず、窓のそばで電話を掛けた。
父、母、実家の番号。
どれもつながらなかった。
美緒も順に試し、最後にスマートフォンを下ろした。
テレビには、朝と同じ文字が出ていた。
俺は送れなかったメッセージを、もう1度送信した。
『こっちは2人とも無事。外には出てない。連絡が取れたら返事して』
送信に失敗した。
文章は消さず、そのまま残した。
街へ戻ると、美緒が台所へ行った。
「何か食べようか」
「ああ」
「今日は簡単なのでいい?」
「卵とパンでいいよ」
俺が冷蔵庫から卵を出し、彼女がフライパンを取った。
食卓へ座っても、美緒の手元にはスマートフォンがあった。俺もポケットから出し、皿の横へ置いた。
「夜にも、もう1回掛けよう」
俺が言うと、美緒が頷いた。
「うん。朝はつながらなくても、夜ならってことあるもんね」
「試してみよう」
彼女はパンを取り、卵を少し載せた。
俺も食べ始めた。食べ終わったあと、2人で夜の電話の時刻を決め、スマートフォンにアラームを入れた。
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