第17話 ドアの向こうの足音
朝、廊下へ出ると、台所から音がした。
美緒がパンを切っていた。昨日買ったシャツに着替え、皿の横に卵を置いている。
「起きた?」
「ああ。よく眠れたか?」
「うん。途中で起きなかった」
俺は椅子を引いた。
昨夜、部屋を出るときも、美緒は眠ったままだった。朝になって、自分から台所に立っている。それだけで少し安心した。
「パン屋、行くんじゃなかったか」
「お腹すいて、待てなかった。残ってたのでいい?」
「もちろん」
美緒が卵を割り、フライパンへ落とした。
俺は飲み物を用意した。パンの皿を食卓へ運ぶと、彼女が目玉焼きを載せる。
「昨日、いてくれてありがとう」
「寝られたならよかったよ」
美緒は頷き、向かいへ座った。
パンをかじると、表面がさくっと割れた。彼女は卵の黄身へパンをつけ、こぼさないよう皿を寄せている。
「今日はどうする?」
聞かれ、俺は窓の方へ目を向けた。
「まず、家に連絡する。ニュースも見たい」
「うん。私も電話する」
美緒は食べる手を止めなかった。
俺も残ったパンを食べた。外へ出るのは、そのあとでよかった。
*
アパートの部屋には誰もいなかった。
窓から確認し、2人で現実へ戻った。
昨日より部屋が蒸していた。閉め切った窓の外から、かすかにサイレンが聞こえる。
美緒がすぐ母親へ電話した。
俺も実家へ掛けたが、1度目はつながらなかった。もう1度かけ直すと、父が出た。
「直人か」
「うん。そっちは大丈夫?」
「家におるよ。近くのスーパーは、今日は閉めるらしい」
「母さんは?」
「隣におる。代わろうか」
母の声も聞けた。
買い物は昨日済ませ、今日は外へ出ていないという。親戚へも電話をしているらしい。
「東京、ひどいことになっとるね」
「うん。俺たちは今のところ大丈夫」
「食べるもの、ある?」
「あるよ。昨日も今朝も食べた」
母が何か言いかけ、途中で声が途切れた。
「もしもし?」
返事が遠くなり、通話が切れた。
かけ直そうとすると、メッセージが届いた。
『声、聞こえんくなった。こっちは大丈夫。また電話して』
俺は返信し、スマートフォンを机へ置いた。
美緒も電話を終えていた。
「母も家にいるって。父は玄関の外、見てくるって言ってたから、やめてって言った」
「見に行きたくなるんだろうな」
「うん。でも、ニュースでも外出控えてって言ってるし」
テレビをつけた。
普段の朝の番組はなかった。各地の映像と、交通機関や医療機関の情報が続いている。
病院の前に、車が何台も停まっていた。入口の扉は閉じられ、外にいる人たちが内側へ声をかけている。
画面が海外の道路へ変わった。
車のそばで、男が倒れていた。
警察官らしい人が近づき、肩を揺すっている。少し離れた場所に、血で濡れた包帯を腕へ巻いた男が座っていた。
倒れていた男が動いた。
警察官が顔を近づけた瞬間、男の手がその首元を掴んだ。
美緒が顔を背けた。
俺はリモコンを持ったが、すぐには消せなかった。止めようとした別の警察官まで倒れ、画面の外から銃声がした。
男は倒れた。
それでも、地面へ手をつき、また起き上がろうとした。
映像が切り替わった。
美緒が俺を見ていた。俺はテレビを消した。
「今の、撃たれたよね」
「ああ」
「それでも動いてた」
俺は返事をしなかった。
道で見た男も、口の周りに血がついていた。怪我をしている人なのか、誰かの血なのか、そのときは確かめられなかった。
美緒が机へ手をついた。
「もう、外は歩きたくない」
「俺もだ」
*
机には俺のパソコンが残っていた。
電源を切り、充電器と一緒に袋へ入れる。美緒が隣の本棚を見た。
「持っていくもの、今まとめる?」
「この部屋の中で済む分だけ。廊下には出ない」
彼女が頷いた。
ノートと外付けの記録用機器、予備の眼鏡。仕事の書類は机の引き出しにまとまっていた。
美緒が窓のそばへ袋を運ぶ。
「服も?」
「何枚か。あとは向こうで買える」
俺は箪笥を開け、普段着を取り出した。
冷蔵庫にも食べ物が残っていた。開封したものは置き、日持ちするものだけ袋へ入れる。保存食の箱は流しの下の奥にあったが、まず机の荷物を運ぶことにした。
美緒が取り込みの項目を開く。
袋が消え、品名が並んだ。
「ちゃんと届いてる」
「先に出して、机へ置いてくれるか。俺はこっち片づける」
「わかった」
彼女が街へ戻った。
俺は電源の切れた机を見た。6年間、この椅子に座って街をつくってきた。今は、その街の方へパソコンを運んでいる。
引き出しの奥に、古いヘッドセットがあった。
美緒と初めて通話した頃に使っていたものだ。片方の耳の布が破れ、今は予備としても使っていない。
捨てるか迷い、結局、次の袋へ入れた。
*
玄関の外で、何かが倒れた。
俺は袋を置いた。
続けて、男の声がした。
「どうしたんですか。大丈夫?」
廊下だった。
俺は玄関へ近づきかけ、足を止めた。
誰かが咳き込んでいる。喉の奥に何か引っかかったような、濁った音だった。
「救急車、呼びますから」
男の声が近くなった。
俺はスマートフォンを握った。あの人を止めなければと思ったが、声を出す前に、激しい音がした。
「痛っ……何して――」
靴が床を擦り、扉に何かがぶつかった。
俺の部屋の扉ではなかった。それでも、震えが足元まで伝わってきた。
「離せ! 離せって!」
俺は玄関まで行き、覗き穴を見た。
向かいの部屋の前で、男が壁へ背中を押しつけていた。手首を掴まれ、もう片方の手で相手の頭を押している。
掴んでいたのは、灰色の服を着た女だった。
頭が不自然に前へ傾いている。その口が、男の腕へ押しつけられていた。
男が女の肩を殴った。
女は離れなかった。
俺は扉から離れた。息を吸おうとしたのに、うまく入らない。
美緒が戻ってきた。
「直人?」
俺はすぐに手を上げた。
彼女が口を閉じる。
外で悲鳴がした。美緒が玄関へ顔を向け、俺を見た。
俺は壁の窓を指した。
「戻ろう」
できるだけ小さく言った。
彼女は床の袋を取ろうとした。俺が首を振ると、その手を引いた。
玄関の外で足音がした。
ゆっくり、扉の前へ近づいてくる。
美緒が《街に入る》を押した。俺も続こうとしたところで、ドアノブが動いた。
鍵が掛かっているので、扉は開かなかった。
もう1度、ノブが下がった。
俺は窓へ触れ、表示を押した。
*
リビングへ戻ると、美緒が待っていた。
俺の顔を見て、近づいてくる。
「何があったの?」
「廊下で、人が噛まれた」
口にすると、見たものを思い出した。
「助けようとしてたんだ。救急車呼ぶって言って」
美緒は俺の腕へ目を落とした。
「直人は? 触られてない?」
「扉は開けてない。大丈夫」
彼女が俺の袖を両方持ち、確かめるように見た。それから手を離した。
俺はソファへ座った。
膝が少し震えていた。靴を脱ごうとして、紐へうまく指がかからない。
美緒が隣へしゃがんだ。
「そのままでいいよ。落ち着いてからで」
俺は頷いた。
壁の窓には、アパートの室内が映っていた。机の前に、持ってくるつもりだった袋が残っている。
美緒が窓へ近づき、玄関を見た。
こちらから聞こうとしなければ、廊下の音は聞こえない。彼女は音を確かめる操作には触れず、画面を閉じた。
「今日は、もう戻らないでおこう」
「ああ」
俺は背もたれへ体を預けた。
美緒が水を持ってきた。受け取り、少し飲む。
「パソコン、机に置けた?」
「置けた。充電器もつないだよ」
「ありがとう」
「ほかの袋も、全部ある」
彼女は俺の隣へ座った。
俺はコップを持ったまま、しばらく床を見ていた。外の男は、俺たちと同じように、倒れた人を助けようとしたのだろう。
扉を開けなかった自分の手へ目を落とす。
美緒が、その手に触れた。
「戻ってきてくれてよかった」
俺は顔を上げた。
彼女の手を握ると、美緒も指に力を入れた。コップをテーブルへ置き、もう片方の手で目をこすってから、俺はもう1度頷いた。
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