第16話 眠るまで、そばにいて
美緒が袖を離したのは、コップの水を飲み終えてからだった。
「ごめん。もう大丈夫」
指で布を伸ばし、俺へコップを渡す。
俺は受け取ったが、まだ立たなかった。
「何か食べるか?」
美緒が時計を見た。
昼を少し過ぎていた。朝から出かけて、持っていった水しか口にしていない。
「少しなら」
「スープ、温めるよ」
「私も行く」
彼女が椅子から立った。机の写真立てを見てから、俺についてくる。
台所で冷蔵庫を開けた。
野菜のスープとパンがある。鍋へ移して火にかけると、美緒が棚から器を2つ出した。
「パン、切ろうか」
「頼む」
美緒は手を洗い、包丁を取った。俺も隣で手を洗う。掌を擦ると、壁へ当てていたところが少し痛かった。
食卓へ料理を運んでいると、美緒が隣の椅子を引いた。
「今日は、こっちに座って」
「ああ」
俺は器を置き直し、彼女の隣へ腰を下ろした。
美緒がスープを飲んだ。
ひと口目は小さかったが、次はパンをちぎって食べた。熱かったのか、少し息を吹きかけてから、またスプーンを口へ運ぶ。
俺も食べ始めた。
窓の外を宅配の車が通った。隣の家の前で停まり、荷物を抱えた男が門を開ける。
美緒はその姿を目で追った。男が家の中へ入ると、スープへ視線を戻した。
「これ、おいしい」
「まだあるぞ」
「じゃあ、少しだけ」
器を受け取り、鍋から足した。美緒は残っていたパンも取り、ゆっくり食べた。
*
食後、美緒がスマートフォンを持ってきた。
「家に電話したい。ちゃんと戻ったって伝えないと」
「俺も掛けよう」
リビングの壁で、アパートの出口を選んだ。
窓の向こうには、朝使ったコップが机に置かれていた。玄関の扉は閉まっている。部屋に誰もいないことを確かめてから、2人で外へ出た。
遠くでサイレンが鳴っていた。
美緒が玄関へ顔を向ける。俺も音を聞いたが、近づいてくる様子はなかった。
スマートフォンに通知が続いた。
母へ電話を掛けると、呼び出し音が何度も鳴った。切ろうか迷ったところで、声が聞こえた。
「直人? 大丈夫なん?」
「大丈夫。美緒の荷物を取って、戻ってきた」
「連絡ないから、心配したよ。電車も止まっとるんやろ」
「うん。もう外には出ないつもり」
隣では、美緒も電話をしていた。戻れたことを伝え、母親の返事を聞いて何度も頷いている。
「そっちは変わりない?」
俺が聞くと、母は、店で水や食べ物を買う人が増えていると話した。父も買い物を済ませ、家にいるという。
「戸締まりして、しばらく家にいて。何かあったら電話して」
「あんたも気をつけなさいよ。美緒ちゃんと一緒なんやね?」
「うん。一緒にいる」
母が少し安心したように息を吐いた。
電話を切り、テレビをつけた。
鉄道の運休情報が画面の端に並んでいた。朝には動いていた路線も、ほとんど止まっている。
病院からの中継では、入口の前に人が集まっていた。警察官が下がるよう呼びかけ、救急車が敷地へ入ろうとしている。
美緒が電話を終え、隣へ来た。
「母も父も、今日は家にいるって」
「うちもだ。声が聞けてよかったな」
「うん」
画面が駅の映像へ変わった。
床へ倒れた人の周りを、乗客が囲んでいた。肩へ手を伸ばす人が映り、美緒が俺の腕に触れた。
「これ、見たくない」
俺はテレビを消した。
「戻ろう」
美緒が頷いた。俺は玄関の鍵を確かめ、スマートフォンをポケットへ入れた。
*
街へ戻ると、美緒はソファに座った。
俺も腰を下ろしたが、何もしていないと落ち着かなかった。少し休んでから、机の引き出しを開ける。
「何してるの?」
「足りないもの、書いておこうと思って」
ノートに「着替え」「食料」「薬」と書いた。
どれも街で買える。俺はその横に丸をつけた。
美緒が手元を見た。
「また、荷物を取りに行くの?」
「いや。必要なものを確認してるだけ」
「今日は、もう外に出たくない」
俺はノートを閉じた。
「行かないよ。今日は休もう」
美緒は頷き、背もたれへ体を預けた。
俺もソファへ戻った。何かしている方が気が紛れたが、今は彼女の隣にいた方がよさそうだった。
しばらくして、美緒が聞いた。
「直人のパソコン、まだ部屋にあるよね」
「ある。でも、今日使うわけじゃないし」
「私の、使っていいからね」
「ありがとう」
彼女はソファの端に置いてあったクッションを抱えた。
窓の外から子供の声が聞こえた。笑い声だとわかってから、美緒が顔を上げた。
「ここで休んでてもいい?」
「もちろん。俺もここにいる」
美緒はクッションへ頬をつけ、目を閉じた。
*
夕方、エドへ夕飯を頼んだ。
配達もできるというので、焼き鳥と温かい汁物を注文した。届くまでに風呂を沸かし、美緒に先に入ってもらった。
俺が風呂から出る頃には、テーブルに料理が並んでいた。
美緒は寝間着に着替え、箸を出している。
「届いたのか」
「うん。エドさん、辛いソースは別に入れてくれた」
「今日は使う?」
「少しだけ」
彼女は容器を開け、串の先につけた。
俺も椅子へ座り、タレの焼き鳥を食べた。昼より腹が減っていて、続けてもうひと口かじる。
美緒が汁物の器を持った。
「今日、台所使わなくて済んだね」
「片づけも少ないしな」
「うん。頼んでよかった」
俺は空いた串を紙袋へ入れた。
「明日の朝、何食べたい?」
美緒は少し考えた。
「パン屋の。あの丸いの」
「買ってくるよ」
「私も行きたい。起きられたら」
「じゃあ、起きてから決めよう」
彼女は頷き、汁物を飲んだ。
食べ終わるまで、外の話はしなかった。
*
夜、美緒は寝室の入口で俺を待っていた。
「水、持っていっていい?」
「いいよ。コップより瓶の方が倒さなくて済むか」
「コップで大丈夫」
彼女は受け取り、机へ置いた。それからカーテンを閉め、ベッドの端へ座る。
俺は入口に立っていたが、美緒は布団へ入ろうとしなかった。
「どうした?」
「眠れるかなと思って」
「少し横になってみるか」
「目を閉じたら、あの道、思い出しそう」
俺は机の椅子へ座った。
美緒がこちらを見た。
「ここにいてくれる?」
「ああ」
「眠るまででいいから」
俺は頷いた。
彼女は布団へ入り、横向きになった。顔はこちらへ向けたままだった。
机には、持ち帰った写真立てがある。窓際の鉢も、さっきより少し奥へ動かされていた。
「ホテルの写真、ある?」
美緒が聞いた。
「あるよ」
「朝の、桟橋で撮ったやつ」
スマートフォンを出して、画面を見せた。
2人で手すりの前に立っている。美緒の髪が風で頬へかかり、俺は少し屈んでいた。
彼女が枕から頭を上げたので、俺は椅子を近づけた。
「これ、よく撮れてるね」
「俺も目つぶってないしな」
美緒が少し笑った。
「まだ言ってる」
「お前が何回も撮り直したんだろ」
「だって、せっかく2人で撮ったのに」
彼女は写真をしばらく見てから、枕へ頭を戻した。
「ありがとう。もういいよ」
俺は画面を消し、スマートフォンを机へ置いた。
美緒の目が閉じた。
外を車が通ったとき、彼女の眉がわずかに動いた。俺はそのまま座っていた。
しばらくして呼吸がゆっくりになり、布団を握っていた手が緩んだ。
眠れたらしい。
俺は椅子を動かさず、もう少しそこで待った。
面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・☆☆☆☆☆からの評価をいただけると嬉しいです!
感想も大歓迎です。執筆の励みになります!




