第15話 帰りの電車は、もう来ない
朝6時半、アパートへ戻ってテレビをつけた。
昨夜、美緒が通れなくなった駅は、まだ閉鎖されていた。別の路線にも遅れが出ている。ただ、彼女の自宅へ向かう電車は動いていた。
会社からは、自宅待機のメールが届いている。
街へ戻ると、美緒が寝室から出てきた。
「どうだった?」
「俺の会社は休み。電車は、まだ止まってるところがある」
2人でアパートへ出て、美緒も連絡を確かめた。彼女の会社からも、出勤を見合わせるよう案内が来ていた。
美緒は椅子へ座り、しばらく画面を見ていた。
「家の荷物、取りに行けるかな」
俺は路線図を開いた。
乗り換えに使う駅を避ければ、近くまでは行ける。そこから15分ほど歩けば、彼女のアパートだった。
「今なら行けると思う」
「パソコンと、書類。あと、写真も持ってきたい」
昨日買った服や洗面用品は街にある。でも、家に残してきたものは、それだけではなかった。
俺はテレビへ目を向けた。
病院で患者が職員へ噛みついた事件が、また報じられている。交通の混乱が広がる前に済ませるなら、早い方がよさそうだった。
「必要なものだけまとめて、すぐ戻ろう」
美緒が頷いた。
両親へ電話すると、父が出た。町の様子は普段と変わらず、母も隣にいるという。
「今、美緒と一緒にいる。あとでまた連絡する」
「気をつけろよ。ニュース、こっちでもやっとる」
電話を切り、水と充電器を鞄へ入れた。美緒も母親へ行き先を伝え、いつもの靴を履いた。
*
ホームには、電車を待つ人が並んでいた。
来た車両は混んでいたが、乗れないほどではない。俺たちは扉の近くへ入り、美緒が吊り革を掴んだ。
停車するたび、待ち時間が長くなった。
途中の駅で扉が開いたままになり、隣の車両から声が聞こえた。
「駅員さん、呼んでください!」
通路の奥で、人が屈んでいた。
「倒れたの?」
近くの乗客が首を伸ばす。
俺にも、床へ横たわる人の靴だけが見えた。誰かが肩へ手を置き、声をかけている。
美緒の指が、俺の腕に触れた。
「降りようか」
「ああ」
ホームへ出た直後、車内から悲鳴がした。
振り返ると、屈んでいた男が立ち上がろうとしていた。片腕を誰かに掴まれ、体を引いている。
「離せ!」
男が座席へぶつかった。
乗客が扉へ押し寄せた。最初に出た女が足をもつれさせ、その後ろからも人が来る。
俺は美緒の手を掴み、扉の前から離れた。
駅員が走ってきた。車内へ入りかけたところで、別の乗客がその袖を引いて何か伝えている。
美緒が立ち止まり、そちらを見た。
奥から、まだ助けを呼ぶ声がしていた。
「美緒、こっち」
彼女が俺へ顔を戻した。
階段を上がる人の流れに入り、駅の外へ出た。改札の向こうでは、別の駅員が無線で話していた。
*
「ここからなら歩ける」
美緒がスマートフォンの地図を開いた。
「30分くらいかかるけど」
「歩こう。電車、いつ動くかわからない」
大通りを進んだ。
交差点には車が詰まり、信号が変わっても動かない。歩道の端で電話をしている人が、声を荒らげていた。
救急車の音が近づいてきた。
車は左右へ寄ろうとしていたが、前へ進めない。赤い光が車列の向こうで止まったままになった。
美緒が振り返る。
「行けないんだ」
俺も見た。救急車の前には、曲がりかけて交差点を塞いだトラックがあった。
俺たちは道の端を歩き、住宅街へ入った。
車の音が遠くなって、少し息が楽になった。美緒の部屋までは、あと2つ角を曲がればよかった。
その先で、男が歩いていた。
片方の靴がなく、靴下を道路へ擦っている。シャツの胸元が濡れ、口の周りに赤いものがついていた。
男の後ろに、人が倒れていた。
歩道へ仰向けになり、片足だけが車道へ出ている。すぐ横には、倒れた自転車があった。
俺は足を止めた。
「……あの人」
美緒が倒れている人を見た。
男が顔を上げた。
俺たちの方へ向きを変え、歩き始める。速くはない。けれど、こちらが下がると、同じ方へ進んできた。
「戻ろう」
俺は美緒の手を取った。
彼女はもう1度、倒れた人へ目を向けた。それでも、俺と一緒に下がった。
「別の道、あるか?」
「次の角。左に行けば、裏から回れる」
走り出すと、鞄が脇腹へ当たった。
角を曲がる前に振り返った。男はまだ、俺たちのいた場所へ向かって歩いていた。
*
美緒のアパートへ着くと、彼女が鍵を出した。
束の中から選んだ鍵を、入口へ差し込む。1度うまく入らず、持ち直した。
俺は通りを見た。
誰もついてきていない。
扉が開き、2人で階段を上がった。2階の部屋へ入って鍵を掛けると、美緒は玄関に座り込んだ。
俺も壁へ手をついた。走った距離は短かったのに、息がなかなか戻らない。
「ここまで、来たよね」
美緒が言った。
「ああ。もう部屋だ」
彼女は頷き、靴を脱いだ。
俺は窓へ近づき、カーテンの隙間から道を見た。さっきの男はいなかった。
美緒が棚から写真立てを取り、タオルで包む。次に引き出しを開け、書類の袋を出した。
「これと、パソコン。薬はこっち」
俺は持ってきた袋を広げた。
荷物を受け取りながら、帰りの運行状況を確認する。
来た路線が止まっていた。
別の路線も、運転見合わせになっている。動いていた区間まで、表示が変わった。
美緒が充電器を持ってきた。
「帰れる?」
俺は画面を見せた。
彼女は読んでから、机へ充電器を置いた。
「タクシーは?」
「探してみる」
配車の画面を開いたが、近くに車が見つからない。待っている間に、美緒は鉄道会社の案内を開いた。
「こっちも再開の見込み、出てない」
外で大きな音がした。
窓から見ると、交差点の手前で車が斜めに停まっていた。バンパーが電柱に当たっている。
運転席の男が降り、道路にいた別の人へ怒鳴った。
その人が近づいた。
運転手が腕を掴まれ、車体へ押しつけられる。顔を寄せられた瞬間、声が悲鳴に変わった。
俺はカーテンを閉めた。
美緒がスマートフォンを耳へ当てていた。短く場所を伝え、助けが必要だと言った。
答えを聞いている間、窓の外から警笛が続いた。
電話を切った彼女が、俺を見た。
「通報が重なってるって。来るまで、近づかないでって言われた」
俺は壁へ目を向けた。
徒歩で戻る道のことを考えていた。でも、その必要はなかった。
「ここを登録しよう」
美緒が顔を上げた。
「ここから、街に戻れるようにする。川沿いでできたから」
彼女はすぐに机の横へ行き、壁際の箱を動かした。
「ここ、使える?」
「使える。荷物も近くに置いておこう」
*
壁に手を置き、接続地点の追加を選んだ。
位置を指定し、接続先を自宅のリビングにする。川沿いでやったときと同じように、確認を1つずつ進めた。
美緒が必要なものを壁のそばへ集める。
外で悲鳴が上がり、彼女の手が止まった。
俺も画面から目を離しかけたが、操作を続けた。今は、ここを終わらせるしかなかった。
階段を誰かが上がってきた。
足音が2階で止まる。
美緒が玄関へ顔を向けた。俺は壁へ手を置いたまま、音を聞いていた。
鍵が触れ合う音がして、隣の扉が開いた。
「早く入って」
女の声だった。
子供らしい足音が続き、扉が強く閉まった。鍵を掛ける音がした。
美緒が俺の横へ戻った。
表示が、ようやく切り替わった。
《接続地点を登録しました》
壁に、街の窓が現れた。
自宅のリビングが見えた。ソファも、テーブルも、そのままだった。庭には、昨日と同じ花が咲いている。
美緒が窓へ近づいた。
両手を壁につき、顔を寄せる。
「あった」
彼女の肩が下がった。
「直人、戻れるね」
「ああ」
俺は画面を押そうとして、自分の指が震えていることに気づいた。壁へ掌をつけ、少し待ってから動かした。
《接続地点:3/3》
下に説明が出ていた。
登録できるのは3か所。追加するには、今ある接続を1か所解除しなければならない。
「3つまでらしい」
俺が言うと、美緒は頷いた。でも、目はリビングへ向いたままだった。
「今は、ここがあればいい」
「先に戻ってみよう」
彼女が《街に入る》を押した。
窓の向こうに美緒が現れ、ソファの背へ手を置いた。それからこちらへ振り返る。
俺も続いた。
リビングの床へ足がついた。
美緒が俺の方へ来て、腕を掴んだ。
「戻れた」
俺は何度か頷いた。
もう、外の警笛は聞こえなかった。
*
息が落ち着くまで、2人でソファへ座った。
荷物はまだ美緒の部屋にある。
街側の窓から確認すると、室内には誰もいなかった。玄関の鍵も掛けたままだ。
「俺が運ぶ。ここで待っててもいいぞ」
「ううん。どれを持ってくるか、私が見ないと」
美緒が立ち上がった。
2人で部屋へ戻り、集めたものを窓へ取り込んだ。
パソコン。書類。薬。包んだ写真立て。
品名が表示されるたび、美緒が次のものを渡してくる。
外から物の割れる音がした。
彼女が顔を上げた。
「あと、この箱」
俺は受け取り、取り込んだ。
「ほかは?」
美緒は部屋を見回した。
棚には本が並び、窓際には小さな鉢がある。ベッドには、昨日脱いだ服が置かれていた。
彼女は鉢へ近づき、両手で持った。
「これも、いい?」
「もちろん」
土をこぼさないよう受け取り、最後に運んだ。
美緒が机の引き出しを閉める。
「今日は、これでいい」
「戻ろう」
街へ移る前、彼女は玄関の鍵をもう1度確かめた。
*
自宅の寝室へ、荷物を運んだ。
俺がパソコンを机へ置くと、美緒は写真立てのタオルを外した。
家族で撮った写真だった。
机の端へ立て、倒れないか指で確かめる。小さな鉢は窓際へ置いた。
「持ってこられた」
美緒が椅子へ座った。
俺は水を持ってきて渡した。彼女は少し飲み、コップを両手で持ったまま俯いた。
「あの人、倒れてた人」
俺はベッドの端へ座った。
「近づけなかった」
「あの男、俺たちにも向かってきただろ。戻ってたら、掴まれてたと思う」
「うん」
美緒は頷いたが、しばらく顔を上げなかった。
俺も、歩道から出ていた足を覚えていた。自転車が倒れていて、誰もそばにいなかった。
コップを受け取ろうとすると、美緒の手が俺の袖を掴んだ。
「ちょっと、ここにいて」
「ああ」
彼女はもう片方の手で、机の上の写真立てを少し動かした。椅子に座ったまま、家族の顔が見える向きへ直している。
俺は立ち上がらず、その隣にいた。




