第14話 今日は、帰らなくていい
会社を出たところで、美緒から電話が来た。
「直人、今どこ?」
「会社の前。どうした?」
電話の向こうで、駅の放送が聞こえた。美緒の声が1度途切れ、少しして戻ってくる。
「いつも乗り換える駅で、何かあったみたい。電車、止まってる」
俺は歩道の端へ寄った。
「美緒は、その駅にいるのか?」
「ううん。手前で降ろされた。別の路線に行こうと思ったんだけど、そっちも人がすごくて」
放送がまた入った。係員の案内に従うよう呼びかけていたが、続きはよく聞き取れなかった。
「怪我した人がいるって。まだ詳しくはわからないけど」
美緒が声を落とした。
「今日、そっちに泊まってもいい?」
「もちろん。今どこにいる?」
駅名と出口を聞き、俺は路線図を開いた。止まっている区間を通らずに行ける。
「そっちへ行く。駅の外へ出られるか?」
「出られると思う」
「出たら、待てる場所を教えて」
「うん」
電話を切ると、彼女からニュースの記事が届いた。
駅構内で複数の負傷者が出ていた。倒れた乗客を介抱していた人が襲われ、その場へ来た駅員も怪我をしたという。
噛みつかれたとの情報もあるが、詳しい状況は確認中だった。
俺は記事を閉じ、駅へ向かった。
*
美緒は駅前の喫茶店にいた。
窓際の席で、両手をカップへ添えている。俺を見つけると立ち上がりかけたので、手を上げて止めた。
「飲んでからでいいよ」
向かいへ座ると、美緒はまた椅子へ腰を下ろした。
「ごめん。迎えに来てもらって」
「いいって。怪我とか、ないな?」
「うん。私は何も見てない。電車が止まって、みんなスマホ見始めて、それから降りてくださいって言われた」
テーブルへ置いた画面には、さっきの記事が開いていた。
「駅員さんに聞いてる人がいっぱいいて、後ろからも人が来るし。どこへ行けばいいのか、わからなくなっちゃった」
美緒はカップを持ち上げ、少し飲んだ。
俺も飲み物を注文した。
「お母さんには連絡した?」
「メッセージだけ。今から電話してもいい?」
「ああ」
美緒は母親へ掛けた。
自分は別の駅にいて、怪我はしていないこと。今日は俺のところへ泊まることを伝えている。
しばらくして、スマートフォンを俺へ差し出した。
「代わってって」
受け取ると、美緒の母親が何度も礼を言った。
「今、一緒にいます。帰りの路線は動いているので、大丈夫です」
そう伝えると、少し声が落ち着いた。
俺も両親へ、ニュースの記事を添えて連絡した。海外で続いていた事件が、国内でも増えている。駅や病院で人が暴れていたら、近づかないでほしかった。
美緒がカップを置いた。
「ありがとう。そろそろ行ける」
俺は頷き、立ち上がった。
*
アパートへ着くと、美緒は鞄を椅子へ置いた。
「着替え、何も持ってないんだけど」
「向こうで買おう。服屋もあるし」
「そっか。スーパーもあったよね」
「住宅街の入口にある。先に買い物してから帰ればいい」
美緒は頷き、腕時計を見た。
俺はテレビをつけた。
改札の前に規制線が張られ、警察官が通行人を別の方向へ誘導している。美緒が普段使っている出口も、今は入れないらしい。
「明日も止まってたら、会社どうしよう」
「朝、連絡してみればいいだろ。今は帰ること考えなくていいよ」
彼女は画面を見たまま頷いた。
ニュースは、国内で起きた似た事件を海外の事例と並べて説明していた。いずれも、倒れた人が介抱や搬送の途中で暴れたとされている。ただ、同じ原因かどうかは調査中だった。
会社からの連絡も確認した。
俺の方には、交通機関に支障がある場合は無理に出勤せず連絡するよう、メールが来ていた。美緒の会社からも、翌朝の運行状況を確認するよう案内が届いている。
「朝、こっちへ戻って見よう」
「うん。街にいる間は連絡来ないもんね」
美緒は母親へ、無事に着いたと送った。俺も返信を済ませてから、テレビを消した。
*
街へ入り、車で繁華街へ向かった。
服屋の前へ着くと、美緒が窓に並んだ服を見た。
「ここ、入ったことなかった」
「俺も。外から見てただけだな」
店内には、普段着や仕事にも着られそうな服が並んでいた。奥には寝間着や下着の売り場がある。
「ここで待ってる。終わったら呼んで」
俺が入口近くの椅子を指すと、美緒は頷いた。
「ごめん。少しかかるかも」
「ゆっくりでいいよ」
彼女が売り場へ入っていく。
俺は座って待ちながら、壁に掛かった上着を眺めた。ゲームのときは、見た目だけで服を選んでいた。今は袖の長さも、生地の厚さも気になる。
しばらくして、美緒が薄い青色のシャツを持って戻ってきた。
「明日、これなら会社にも着ていけるかな」
「いいと思う」
「こっちと、どっちがいい?」
もう1枚は、襟の形が少し違っていた。
俺は見比べて、最初の方を指した。
「そっち」
「じゃあ、これにする」
もっと聞かれるかと思ったが、美緒はすぐに売り場へ戻った。
買い物を終えた彼女は、大きめの紙袋を抱えていた。
「寝る服と、明日の服。下着も買えた」
「持つよ」
手を出すと、美緒が袋を渡した。
「ありがとう。あと、歯ブラシとか」
スーパーで洗面用品を揃え、夕飯も買った。
惣菜の棚の前では、美緒がようやく自分から料理を選んだ。
「これ食べたい。直人も食べる?」
「食べる。あと、こっちも買うか」
籠へ入れると、彼女が隣に飲み物を置いた。
*
自宅の空いている寝室へ、美緒を案内した。
窓は庭へ向いている。ベッドと机、小さな収納棚がある。
美緒は荷物を置く前に、窓へ近づいた。
「私の花、ここから見える」
庭の鉢に、彼女が選んだ花が咲いていた。
「この部屋でいい?」
「うん。使ってないんだよね?」
「ああ。棚も空いてるから」
美緒は紙袋から服を出し、明日着るシャツをハンガーへ掛けた。寝間着はベッドへ、洗面用品は机へ置く。
俺は棚から新しいタオルを出した。
「風呂、先に入っていいよ。飯はそのあとにしよう」
「うん。そうする」
彼女が洗面用品を持って部屋を出る。
俺は残った買い物袋を台所へ運び、皿を用意した。
*
美緒が戻ってきたとき、電子レンジが鳴った。
買ったばかりの寝間着は、淡い灰色だった。彼女は袖口を直しながら、台所を覗く。
「手伝うよ」
「じゃあ、箸出して」
惣菜を取り分け、向かい合って座った。
美緒は最初のひと口を食べてから、ようやく笑った。
「お腹すいてた」
「昼、ちゃんと食べた?」
「会議の前にパンだけ。駅で待ってるときは、何も食べたいと思わなかったんだけど」
今は箸が止まらなかった。
俺は残っていた唐揚げを彼女の皿へ置いた。
「これも食って」
「直人の分は?」
「もう食べた」
彼女は頷き、受け取った。
食べ終わると、美緒が皿を運び、俺が洗った。隣で布巾を持った彼女が、拭いた皿の置き場所を聞いてくる。
「その棚でいい」
「ここ?」
「ああ」
片づけたあと、リビングへ移った。
美緒はソファへ座り、背もたれへ体を預けた。俺が温かい飲み物を置くと、両手でカップを包む。
「やっと落ち着いた」
俺も椅子へ座った。
美緒は少し飲んでから、カップをテーブルへ戻した。
「助かった。ありがとう」
「電話してくれてよかったよ」
「迷ったんだけどね。待ってたら電車動くかなって」
「また困ったら、連絡して」
「うん」
彼女は頷き、窓の外へ目を向けた。
隣の家に明かりがついている。庭の向こうを、自転車が通り過ぎた。
「明日、何もなかったらいいね」
「ああ。朝、ニュース見よう」
*
眠る前に俺だけアパートへ戻り、連絡を確認した。
父からは、何かあれば電話するよう返事があった。駅の列車は、まだ動いていなかった。
街へ戻ると、美緒が寝室の入口に立っていた。
「どうだった?」
「まだ止まってる。会社からは新しい連絡なし」
「そっか」
「朝、また確認する」
彼女は頷き、部屋へ戻りかけて振り返った。
「今日、直人もこっちで寝るよね?」
「ああ。隣の部屋にいる」
「うん。おやすみ」
扉が閉まり、少しして内側から鍵を掛ける音がした。
俺も目覚ましをセットし、自分の部屋へ入った。廊下の明かりは、消さずに残しておいた。
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