第12話 帰らなくてもいい夜
湖畔のホテルに泊まってみないかと言ったのは、美緒だった。
「部屋、空いてるか見てよ」
俺のアパートで昼飯を食べながら、彼女は壁の窓を指した。街の北側、山に囲まれた湖のそばにホテルがある。
「泊まるの?」
「うん。明日も休みだし」
俺が返事をしないので、美緒は箸を置いた。
「部屋は別々だよ」
「わかってる」
「わかってなさそうな顔してた」
俺は窓へ手を伸ばした。
ホテルを建てたとき、湖の景色と客の入りは確認した。でも、部屋の中には入っていない。予約画面を開くと、湖側の客室が2つ空いていた。
「空いてる。温泉もあるって」
「じゃあ、そこ。私、着替え取ってくる」
美緒が席を立った。俺は画面を開いたまま、同じ日付で2部屋予約した。
*
ホテルへ向かう車は、美緒が運転した。
繁華街を抜け、畑の広がる道へ入る。練習したときより、ハンドルを握る肩に力が入っていない。俺が道を伝えると、彼女は早めに速度を落とした。
「この先、右だな」
「見えてる。湖の看板」
交差点を曲がると、道路脇の木々の間に水面が見えた。
美緒は一瞬そちらへ顔を向け、すぐ前へ戻した。
「着いたら、ゆっくり見る」
「そうしてくれ」
「直人、ちょっと心配しすぎ」
「初めてここまで運転するんだから、心配するだろ」
彼女は否定せず、両手でハンドルを持ち直した。
ホテルの駐車場へ入る。美緒は空いている広い区画を選び、ゆっくり切り返した。白線の間へ収まると、駐車ブレーキをかけて息を吐く。
「着いた」
「お疲れ」
車を降りると、湖から冷たい風が来た。美緒が髪を押さえ、駐車場の向こうへ歩いていく。
「直人、こっちから全部見える」
彼女の隣へ行った。
湖面に山が映っていた。岸に近いところでは小さな波が石へ当たり、離れると滑らかな水面が続いている。
俺がゲームで地形を整えた湖だった。上から見ていたときには、向こう岸までそんなに遠いとは思わなかった。
「ここ、結構大きかったんだな」
「直人がつくったんでしょ」
「この高さから見るの、初めてだから」
美緒は頷き、鞄からスマートフォンを出した。
「車も入れて撮ろう。今日、私がここまで運転したから」
*
受付で予約を伝えると、鍵を2つ渡された。
俺の部屋と美緒の部屋は、隣同士だった。
廊下で分かれる前に、彼女が鍵の札を見せる。
「あとで部屋、見せて。こっちと違うかもしれないし」
「わかった」
部屋へ入ると、正面の大きな窓に湖が見えた。
ベッドの脇には小さなテーブルと椅子が2脚。荷物を置き、カーテンを端へ寄せる。窓を少し開けると、外の空気が入ってきた。
ノックが聞こえた。
扉を開けると、美緒が立っていた。
「私の方、木が近かった。直人の部屋は?」
窓を見つけ、俺の横を通って入ってくる。
「あ、こっちの方が広く見えるね」
「部屋、替わるか?」
「いいよ。私のとこ、葉っぱが揺れるの見えるし」
彼女は窓際の椅子へ座った。
俺も向かいへ座る。普段なら、街へ来てから何を確かめるか、次はどこを直すかと話している。今日はもう運転も終わり、夕飯まですることがなかった。
「温泉、先に行く?」
美緒が聞いた。
「ああ。飯の前に行こう」
「じゃあ、支度してくる。あとでロビーね」
彼女が出ていくと、俺はベッドへ腰を下ろした。
隣の部屋に美緒がいる。
少し落ち着かなくて、荷物から着替えを出した。
*
温泉から出たあと、俺はロビーで待っていた。
浴衣に着替えた美緒が、階段を下りてくる。乾かした髪を後ろでまとめ、片手に小さな袋を持っていた。
「待った?」
「いや」
「お湯、熱かったね。露天の方、風が気持ちよかった」
「俺も外に長くいた」
美緒が隣へ座った。頬にまだ少し赤みが残っている。
「まだ暑い」
彼女は手で顔へ風を送った。
俺は正面へ目を戻した。2人で風呂上がりに並んでいるのが、なんだか落ち着かなかった。浴衣の袖から出た手が、すぐ隣にある。
「直人は、もう涼しくなった?」
「少し。ここ、風が来るから」
ロビーの奥には、庭へ出る扉が開いていた。美緒もそちらを見て、しばらく背もたれへ体を預けた。
外を眺めていた彼女が、俺の方へ顔を向ける。
「お腹すいたね」
「ああ。そろそろ行くか」
立ち上がると、美緒も小さな袋を持ってついてきた。
*
夕食の席は、湖に面した窓際だった。
空がまだ青いうちに料理が運ばれてきた。小さな皿に並んだ野菜や魚を、美緒が1つずつ覗く。
「これ、どうやって切ってるんだろ」
「そっちから食べるのか?」
「綺麗だから、先に見てる」
薄く切った野菜が重ねてあり、箸で触れたら崩れそうだった。美緒は写真を撮ってから、端を取った。
俺も魚を食べた。皮に焼き目がつき、身は柔らかい。添えられたソースをつけると、柑橘の匂いがした。
「これ、うまい」
「ひと口ちょうだい。私のも食べていいよ」
皿を少し寄せ、互いの料理を取った。
美緒は肉を切り分け、俺の皿へ置こうとした。途中で大きさを見て、もう半分にする。
「遠慮しなくていいぞ」
「これは私が食べたい分」
「そういうことか」
彼女が笑った。
食事の途中で外が暗くなり、窓に店内の灯りが映り始めた。向かいに座る美緒の姿も、ガラスにうっすら見える。
俺はそれを見てから、自分の皿へ目を戻した。
「直人、今日静かだね」
「そうか?」
「いつもは、配管とか道路の話するのに」
「飯食ってるときに?」
「結構するよ」
覚えがないわけではなかった。
「今日は、直すところ探してないからな」
「よかった。私も今日は、お客さんでいたい」
美緒は窓の外へ顔を向けた。
「ここ、建ててくれてありがとう」
「ゲームのときだけどな」
「うん。自分ではホテルつくらなかったから、来られて嬉しい」
俺は水のグラスを取った。
「また来よう」
美緒がこちらを見て、頷いた。
*
食後、湖沿いを少し歩いた。
ホテルの庭から続く道に、低い灯りが並んでいる。水際へ近づくと、昼より風が冷たかった。
美緒が両腕を胸の前で重ねたので、長く歩かず戻ることにした。
並んで来た道を引き返す。肩が触れそうなくらい近かったが、どちらも少し離れようとはしなかった。
「明日の朝、散歩しない?」
「朝飯の前?」
「うん。あの桟橋まで行きたい。今日は暗くてよく見えないし」
「起きられたらな」
「起こすよ。隣だし」
廊下で部屋の前へ着くと、美緒が鍵を取り出した。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ。おやすみ」
彼女が扉を開け、入る前に振り返る。
「直人」
「ん?」
「朝、勝手に帰らないでね」
「帰らないよ」
「起きたら散歩行こう。支度できたら、呼びに来るから」
「わかった。待ってる」
美緒は笑って部屋へ入った。
俺も自分の部屋へ戻り、窓際へ座った。
スマートフォンには電波が入っていない。明日は休みで、目覚ましもまだ設定していなかった。
湖は暗く、対岸の灯りだけが見える。
少し迷ってから、朝の散歩に間に合う時刻でアラームを入れた。
支度を終えてベッドへ入ると、隣の部屋から椅子を引く音が小さく聞こえた。俺は枕の位置を直し、明日の朝はどちらが先に起きるだろうと考えた。




